通り魔とテロリストの距離
日本人に生まれてよかったこと
ある国に住んでいたとき、ちょっとした地震に遭遇した。地震慣れしてる日本人には「あ、揺れてる」くらいのものだったが、めったに地震の起きないところだったので、住民のなかにはパニックになって屋外に飛び出す者が多かった。
これが日曜日であったのだが、次の日出勤してみると、街は地震の話で持ち切りなのにびっくりした。地震って怖いねという話ではない。「大きな震災で混乱すると、南の方から奴らが押し寄せて、略奪を働くんじゃないか、軍隊が出動できるようにしとかんといかんのじゃないか」みたいな話なんである。
北部に富裕層が多く住むその街では、「南」というのは貧民が住むところだ。震災が起きて警察が機能しなくなってしまうと、「奴ら」はわれわれの財産を盗み、妻娘を犯しに大挙してやって来るに決まっている。そう本気で恐れている。
物騒な話だと思うんだが、どうもこちらの方が世界標準であるらしく、震災が起きても略奪などせずにおとなしく行列を作る日本人が、世界の驚きと羨望の的になる道理である。自分が誉められたんではないが、その場に居合わせれば自分も間違いなく行列を作ったであろうから、日本人として誇りに思ってもお咎めはないと思う。
「われら」と「かれら」
しかし、本当にいいことだけなのかと思わんこともない。日本人だって、米騒動の時分までは略奪や暴動と無縁ではなかった。貧民だってたくさんいる。近頃は特に貧富の格差が拡大するとともに、貧困層が増えているはずだ。社会に憤りや不満を抱いている人の数は多いはずなのに、なぜに略奪や暴動が起こらんのか。日本人はむしろ不満を内にためこむ人が多くて、だから「うらめしや」の幽霊も余計に怖い。その恨みはどこに行ってしまうのか。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。