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塚(私の不思議体験)


以前もちょっと書いたことがあるけど、見慣れた近代空間から脇道に入っていくと、思わぬところに異界を見いだしてびっくりすることがある。少し時空を超えてタイムスリップしたような気分にさせられることがある。

皇女の墓

日本で論文執筆のための調査をやっていたころ、図書館通いのついでにあちこち散策するのが自分の気晴らしであった。そして、すっかり開発されてしまった図書館近辺を見下ろす高台の上に、まだ古い木が茂っている場所があるのに気づいた。

中央線などの車窓から眺めると、今でも人家の屋根の大海のところどころにこんもり盛り上がった緑の「島」みたいなものが浮かんでいる。文字通り開発の大波にのまれなかった孤島である。なかにはたぶん祠か古いお社みたいのがあって、お狐様やトトロみたいなモノノケがまだ住んでいる。だから、木を伐ることに躊躇したのである。

その図書館周辺も団地や住宅なんかが立ち並んでいるが、その一部の丘みたいなところにだけ、かなりの樹齢の木が残っている。気になってある日のぼってみたのだが、やはり「塚」があって、旅先でたおれた皇女が葬られた場所という言い伝えの看板が立っている。塚といっても、土が盛られているわけではない。畑の真ん中に小さな祠と看板があるだけだ。それもそれほど古いものではない。

もうあんまり訪れる人もいないらしくて、私が看板の説明を読んでいる間、すぐ後ろのアパートで洗濯物を干しているおばさんが怪訝そうにこちらの様子をうかがっている。祠について尋ねようと思ったら引っ込んでしまった。

その祠も、もとからそこにあるわけではないようだ。明治後期の神社整理であちこち動かされてしまったらしくて、もとの場所はわからなくなってしまったと書いてある。だが、その高台のいちばん高いところはまだ墓地であり、古い墓石が立ち並んでいる。この近辺には旧家らしい門構えの家が何軒かある。裏山を背にして、やはり比較的樹齢の高い木が並んでいるような家である。そうした旧家の墓であろうと思われる。

この薄暗い森で古い墓々の間に立ったとき、自分は一瞬異界へ迷い込んだような錯覚に陥った。そして啓示みたいなものに打たれた。その丘そのものが一つの塚なのである。

ちょうど柳田国男を読んでいた時期なので、ちょっと興味がわいて郷土史を調べてみたのだが、その辺一帯が開かれたのはかなり古く、8世紀か9世紀くらいに大掛かりな開発が行われ、それ以後重要な米作地帯として大名小名たちの争奪戦の対象となったらしい。

多分、大和朝廷が北に勢力を伸ばしていく過程でここら辺の土地の生産力に注目し、都から米作や灌漑事業の専門家などが派遣されてきたのだと思う。渡来人の技術者が派遣されたような痕跡もあるらしい。でも、そんな名前の皇女がここで亡くなったという記録は中央にはない。

柳田の説によると、全国には皇族やエラい人をまつった場所がたくさんあるのだが、その多くはニセモノらしい。ニセモノと言っても、昔は全国を放浪するミコやヒジリたちがいて、その人たちが旅先で亡くなるとやっぱり祠などを建ててまつったらしい。本人が皇女を騙ったのか、はたまた地元の人が箔をつけるために天子様の血筋にしてしまったのかわからないが、この祠もそうしたものの一つなのかもしれない。人々にとってミコはやはり神の子であり、天子様の親戚であった。おそらく古代において皇室がこうした民間信仰を横取りしたんであり、その逆ではない。

漂泊民の影

日本には昔から全国を放浪する民がいた。柳田は、そうした漂泊民たちが、国内移民の歴史の中で分化していった日本各地の共同体における信仰生活の共通性を作り上げたのではと考えた。わが国の超越論的存在の教師たちは彼らであった。中央の神社や寺に属している者もいたが、その統制は末端になればなるほど怪しかった。今日の教師たちと同様、民衆の願望に応えなければ、食っていけなかったからである。だから、全国の信仰生活の統一はまた民衆の願望の統一に根ざしてもいた。

漂泊民の起源は異民族であるという俗信があって、柳田も当初はこの説に傾いていたが、後には批判的になる。彼らは何らかの理由で土地が持てなかった人たちで、生計を立てるために何でも売ることを余儀なくされただけである。自給自足が基本の村で売れる商品などそう多くはないのだが、今日でいうスピリチュアルグッズというものだけは自給自足できない。外から持ち込まれないと(文字通り)ありがたくない。村の人たちは、時に乞食として彼らを蔑み警戒しつつも、正月のようなハレの日には彼らを呼び入れて、お札を買ったり、寿ぎや獅子舞、猿回しなどをやってもらったわけだ。

外から来る者としての漂泊民はモノノケやカミガミとつながっていて、蔑みや警戒の対象であるとともに、畏怖や尊敬の対象でもあった。恐らく江戸時代までに多くの漂泊民が定住したのだと思われるが(これが後の被差別部落の発祥になったと柳田は推測するが、異論もあり今日でも確定していない)、それでも村の信仰生活において重要な役割を担ってきたらしい。うちの母が子どもだった頃はまだ近所に「万歳おじさん」と呼ばれる人がいて、普段は農家なのだが、正月にはマンザイをするためにあちこちに呼ばれたらしい。たぶん定住した漂泊民の末裔なのである。

また、つい最近まではサンカと呼ばれる定住しない人たちがいたのであるが、国家権力に危険分子としてにらまれて定住を強制され、次第に消えていったらしい。多くは都市のスラムに吸収されたものと思われる。こうした漂泊民の歴史は、文字になった資料が少ないため、実証史学からは抹消されてしまったのである。

空間に刻まれた歴史

こんな話を聞いてから街を歩いてみると、ちょっと奇妙な感覚に襲われる。塚の発見もそのような感覚に導かれてのものであった。今から振り返れば、いわゆる「フツーの人」から見て自分が奇人変人に見える人間となった理由の一つは、恐らくこれである。同じ空間に居合わせながら、自分は何か別のものを見ている。この塚の発見によって、自分は本当に歴史意識を得たと言ってもよろしい。歴史的存在としての人間を、生れてはじめて理解したのである。だが、自分などはかなり遅れてやってきたジョニーであり、そうした時間の堆積を空間に見出していた人たちがたくさんいる。柳田民俗学はこの経験を基礎にした歴史科学であった。

自分の経験はこういうことであった。このなんということもない塚から、その奥に横たわる人々の生活史が垣間見えた。今から千年近くも前の昔が現代と同居しているだけではなく、それがローマの遺跡みたいに失われた文明のモニュメントとしてではなくて、つい最近まで連綿として続いてきたものの痕跡として生々しく残っている。過去というのが時間に押し流されないで、現在の隅っこの方に空間として残っている。そういう柳田の歴史観をはからずも実感することとなったわけだ。

こうした歴史意識というのは、単なるノスタルジアとか浪漫的心情にとどまらない。実際に、身の回りの小さな物事の意味を知ることによって、自分の住む空間の奥底に隠されている深い意味が突如として目の前に開かれたような感じがする。エピファニーという奴である。本でしか知らなかった耳学問が、突如として自分とつながったのである。気づいたら、外から眺めていたはずの絵画の世界の中に、自分自身が入り込んでいたのである。マルクスの唯物的弁証法なんて話が言葉遊びではなく、より現実的なものとして迫ってきたのである。もう世界は同じようには見えなくなる。

すっかり近代化した日本では、そうした具体的な空間の意味の多くは忘れ去られてしまった。私の実家の近所でも、昔は田んぼが広がっていたであろう谷あいの空間がさびれて、むしろイノシシやモノノケが走り回っていたような山の方が開発され、新興住宅地になって栄えている。現代の生活のニーズからいうと、前近代的な空間というのは「未開発」もしくは開発から取り残された空間に過ぎなくなってしまった。それだけではなく、そうした未開発の空間には開発された空間で不必要になったもの(ゴミ、老人、病人、死人)を受け入れる施設が建てられて、「中心」のうつし鏡である「周辺・周縁」にされてしまっている。

ご丁寧に、その新しい住宅地を突っ切って今度は近々高速道路が開通するらしい。だから、あの塚やその近辺に残る昔の生活の痕跡がいつまで保存されるのかわからない。だが、ひとたびこうした空間に堆積した時間の深さを知ってしまうと、今日生きている人たちにとっては無意味な空間であるからという理由だけで、無闇に開発の波にさらすことがいいのかどうかわからなくなる。

これは単に自然保護ということではない。前近代の空間というのは人間の手のつかない自然空間ではない。人が長い年月をかけて生活を営んできた名残なのである。人が労働によって自然から切り取った空間なのである。人間が主観的に求める価値が実現された文化そのものなのである。

今では住宅地になってしまった丘、ハイキングコースになってしまった谷戸、歩道の脇を細々と流れる川。そうしたものはかつては全く異なる意味をもって、人々の生活空間を構成していたのである。そうした空間を取り壊したり埋め立てたりすることはもちろん、単に「自然」として残そうとするのも、また人間の歴史を消してしまうことなのである。

更新マニアの保存熱

生きている人たちの都合で空間を大胆に作り替えてきたのが近代の歴史であり、これはヨーロッパなどより近代を輸入した日本みたいな国の方が大胆に行ってきたと言えるかもしれない。現在の日本しか知らないとピンとこないのであるが、今(2010年当時)自分が住んでいる歴史の浅い街と比べると、その傷跡の深さに気づかされて慄然とする。

今住んでいる街を歩いていても(そもそも歩く人のために出来ていない街なのであるが)、私の実家近くを散策した時のような深みを感じることはあまりない。そこは一部残された時間を持たない自然と現在だけが同居する妙に薄っぺらな空間なのである。長い歴史を持つはずの日本がだんだんそのような薄っぺらい空間のようになっていくのを、「発展」として喜ぶべきなのか。それとも「喪失」として悲しむべきなのか。

身近な空間から切り離されて、地図で表されるような抽象的な空間に組み込まれた日本人にとっては、歴史は遠いものになった。学校の教科書に出てくるような抽象的なものだけになり、その土地々々に刻まれた自分の親や祖父母の生の記録は歴史ではなくなってしまった。我々は国史を唯一の歴史にすることにより、実は祖先の生きてきた歴史を消し去ってきたのである。

その結果、現代人は根無し草となってしまい、自分が生きた空間もその歴史とともに消されることを覚悟しなくてはならない。そして、すべてのものが「現在」のために作り替えられる時代を自ら作り上げながら、昔から残っているものに心を癒され、またそうしたものを保存しようとする衝動に駆られたりしてる。

(2010年7月4日に書いたものに加筆した)

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