見出し画像

恋愛の神聖と女性の女神化

恋愛は神聖なものである(べきである)。表だって口にはされないかもしれないが、今日において真面目に恋愛をしようという者は多かれ少なかれそう信じている(そんなことあるもんかと疑う人もいるだろうが、そういう人を納得させるために書かれてるのがこの記事であるから、まずは一読してもらいたい)。

しかし、恋愛が神聖なものになったのは、どうもそんなに遠い昔じゃない。体系的に調べたわけじゃないから断言するのは憚られるが、西洋文学に関して言えば18世紀のようである。

ということは、それ以前は恋愛は必ずしも神聖ではなかった。むしろ、あまりにありふれた俗っぽいもの、卑俗なもの、見苦しいものであった。微笑ましいと思うところがないでもないけど、見た目麗しい芸能人でもないのに人前でいちゃつくカップルを目にしてわれらがイラつくのと同じような目で、かつての人は恋愛一般を捉えていたのではないかと思う。

恋は滑稽なものだった

もちろん、古来から美しい恋の話はあった。だが、それはだいたい神々や神に愛される御子、王やお姫さまなど、高貴で見た目も麗しい者のあいだの恋愛である。貴い身分の方々の恋愛だから貴いのであって、恋愛自体が貴かったわけではなさそうである。市井の人だって恋くらいしたろうが、こちらは盛りのついた犬猫がわんわん、にゃあにゃあとうるさいのと大差のないもので、とても詩や文学などの対象にはならないとされていたんじゃないかと思う。

これを論証するには自分には知識も力量も足りないが、ひとつセルバンテスの『ドン・キホーテ』を挙げることができる。周知のとおり、『ドン・キホーテ』は中世の騎士道物語のパロディという性格をもっている。

騎士道物語の筋はだいたい決まっていて、騎士とお姫さまの恋愛が一つの柱となってる。騎士が高貴な女性に忠誠と操を捧げるのである。しかし、奇妙なことに、彼らは会ったことがなかったりする。彼らの愛は純粋に精神的なものであった。

一つの型では「噂による恋」というのがある。騎士が人から遠い国に住む美しく気高い女王の話を聞く。そして、なんとその噂だけで恋に落ちてしまう。まだ目にしたことのない愛しの人に一目会うために、騎士は遍歴の旅に出かける。幾多の困難を乗り越えて女王の住む町の近くまでようやくたどり着くが、そこで力尽き病に倒れる。その話を聞いた女王は、見知らぬ自分をそれほど愛してくれた騎士の愛情に心を動かされ、見舞いに出かける。その光栄に預かった騎士は本望を遂げ、女王の腕のなかで息絶える。

つまり、肉体的な接触がほとんどない恋愛である。出会うと同時に死によって聖化されてしまう恋である。肉欲で汚されることから注意深く守られている。騎士遍歴物語というのは、十字軍による聖地奪還が不可能となった時代に多く書かれるようになる。であるから、まだ見ぬ高貴な恋人というのは聖地エルサレムや神の代わりであるという説があるくらい、肉欲の消毒された恋であった。

ドン・キホーテはこんな騎士道物語を読み過ぎて、お話と現実の見分けがつかなくなった地方の貧乏騎士である。その彼が自らの操を捧げる姫と見なしたのは、近村の百姓の娘ドゥルシネーア・デル・トボーソであった。ぼくらにはわかりにくいが、この名前自体が百姓臭い名を無理に貴族風にしたものであって、滑稽であるらしい。つまり、市井の娘という恋の対象にはなりえないものを、大真面目に恋い慕っているから騎士道物語のパロディになるのである。

であるから、市井の人々の恋愛が題材になるのは喜劇であった。今でいうラブコメである。男女の不器用なやりとりなんかを、観衆が冷やかし半分にやきもきして見る。恋の経験があれば誰でも恋する者の愚かさが理解できる。だから、同情半分、嘲り半分、いずれにしても自嘲の混じった野次馬根性で、もう恋に見切りをつけたような者が恋に悩む者を上から目線で眺めた。

悪魔は女を通じて男を誘惑する

なぜ恋愛が神聖なものになり得なかったかというと、女性というものはどんなに美しくても、本質的に卑しいものであるとされていたからである。なぜかと言えば、女性は男の卑俗な欲望を刺激する。どんなに美しい女でもそうである。だから、女に対する恋愛感情は肉欲と切り離せない。「悪魔は女を通じて男を道徳的に誘惑する」とも言われた。

男の勝手な言い分なのだが、女自身もまた肉欲を感じ、男を誘惑する自分たちの力を自覚していたから、肉欲を蔑むかぎりはこれを否定しにくかった。ただ肉欲を感じないように見える巫女や高貴な女たちだけが、この女性の冒涜から逃れられた。とはいっても、ローマ時代にも女神の彫像などに不埒なことをする奴もいたようであるから、神聖なものを汚したいという「変態性欲」みたいなものが既にあった。しかし、これは女性ではなく神性に対する冒涜と見なされたわけである。

だから、古代ギリシャでも近世の日本でも、異性間の恋愛よりも、男に対する愛、とくに少年愛がより純粋な恋愛であると考えられた。肉欲ではなく純粋な精神的なものであると思われたのである。カトリック教会における男色には別の事情もあるみたいだが、女淫よりは罪が軽いと考えられていた節があるように思われる。

恋愛感情の平等

しかし、近代は王侯貴族から市民へと覇権が移っていく時代である。であるから、市民のあいだの恋愛もまた評価されることになっていく。レッシングという18世紀のドイツの劇作家に『ミス・サラ・サンプソン』という戯曲がある。これはイギリスで流行り始めた「家庭悲劇」と呼ばれるジャンルに影響されたものであるらしい。つまり、普通人の恋自体が喜劇ではなく悲劇の題材となっている。主人公の女であるサラはまだ貴族の娘であるが、その身分自体はもう重要でない。長い引用であるが、レッシングはこう書いている。

王侯や英雄たちの名前は、作品の飾りになり作品に威厳をつけ加えはするかもしれないが、作品が与える感動にはなんらプラスにならない。われわれが自分といちばんよく似た境遇にある人間の不幸をいちばん深刻に受けとめるのは、自然の道理である。われわれが王たちに同情するにしても、それは王としての彼らにではなく、人間としての彼らに同情するのである。王という身分は、彼らの不幸をふつう以上に重大なものにすることはよくあっても、だからと言って、ふつう以上に興味あるものにしたりはしない。彼らの不幸に幾多の民族全体が巻きこまれることはあるかもしれないが、われわれの共感の対象は、個々の人間でなければならない。国家などというものは、われわれの感情にとっては、あまりにも抽象的すぎる懸念である。(『レッシング名作集』(白水社、1972年)の浜川祥枝「解説」から孫引き)

解説は不要だろう。ここで恋愛感情の平等がはっきりと主張されてる。恋愛に携る者たちの身分にかかわらず、恋愛自体が貴いのである。

女性の神聖化

恋愛が貶められたのは女性蔑視と結びついていたからであるから、恋愛の神聖化には女性の神聖化が伴うことになる。そうして市井の女たちまでがこの恩恵に浴することになる。身分や姿恰好に拘らず、女性自身に何か神的なものがある。そういうイメージを男たちが市井の女たちにも投射するようになってくる。

それがいつ頃始まったのかまだ体系的には調べてないのだが、自分はゲーテにその一例を見いだした。彼の三番目の恋人のフリーデリーケとの関係である。

画像1

(Friederike Brion in Alsatian attire 画像元:Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=594016)

ゲーテのフリーデリーケとの出会いもまた、市民文化の興隆で先を行っていたイギリス文学がきっかけとなってる。オリヴァー・ゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』に出てくるような素朴な牧師一家がいると聞いて、ふざけ半分で会いにいくのである。そこで田園の少女に会い恋に落ちる。

面白いことにゲーテがフリーデリーケに重ねたのは『ウェイクフィールドの牧師』の次女ソフィアである。この小説ではいちばん人物描写が薄っぺらい人物である。姉のオリヴィアや母には強い性格があって興味深い人物なのであるが、貞淑で無欲であるがゆえに最後にいちばん得するという、あまり現実的でない乙女のステレオタイプで、印象が薄い。

だが恋するゲーテは、このつまらない人物に重ねられたフリーデリーケを自然の女神にまつりあげる。悪魔の道具であった女性は女神がその姿を借りて男の前に姿を現すシンボルとなった。「自然へ帰れ」というルソーの呼びかけがドイツに響き渡っていた時代である。

フリーデリーケは都会人の虚栄に毒されず、読書などで余計な教養を授けられてない。体が弱かったために両親に甘やかされ、姉とはちがって自由奔放に、自然のなかで自然を矯めずに育てられた。こうして田舎者の無知・無教養な娘でしかなかった女が女神化された。

これをドン・キホーテのドゥルシネーアの場合と比べて見ると、その違いがよくわかる。同じ田舎娘に恋をしても、前者は滑稽で笑いの対象とされるのに、後者はほとんど宗教的な体験にまで高められてる。

日本への波及

このゲーテの書いたものなどを読んで、多くの若者が自分自身の「女神」を捜し出して恋をしたいと思うようになった。文学を通じて、男も女も、市井の女にも気高いものを見いだすことができるということを学んだ。文学テクストの普及を通じて、その影響は遠く19世紀末の日本にも及ぶ。

柳田国男が、宮崎湖処子の『帰省』(1890年)が当時の学生の旅行熱に与えた影響について回想している。奇妙なのはこれが故郷への旅であることであるが、漱石の『三四郎』の出だしにもあるように、新幹線がなかった当時は帰省も数日がかりの大旅行である。しかも、当時は東京と地方では今日以上に大きなちがいがあった。

湖処子の田舎も九州であった。都会での立身出世競争に疲れた文士が、傷心を抱えて田舎に帰省する。そこで都会の毒に侵されない自然に触れ生命を取り戻す。国木田独歩に見られるような自然回帰の思想がすでにこの小説に見られる。

これが学生に熱狂的に受け入れられたのは、自然の声に耳を傾けるゲーテばりの自然主義のせいでもあるが、もう一つは恋愛が自然に結びつけられているからだと思われる。この帰省において、主人公は親戚の娘との結婚話を固める。いとこ婚であり、伝統的でありふれたものである。だが、この恋愛にもならないような体験を、湖処子はまるで恋愛体験のように描きだしてる。幼い頃からよく知っているいとこを、無垢の乙女として再発見する。そうやって、ここ日本でもまた、田舎への旅が自然の娘への憧憬と結びつけられた。

柳田自身がやはり田舎娘に恋した。帝大生の国男(当時は松岡姓)は実兄の住む布川に住む娘に恋情を抱き、それを歌や詩にして「恋の詩人」と呼ばれた。相手は両親を亡くして親戚の魚問屋に住んでいた田舎娘である。将来のエリートたる帝大法科生の国男には不釣り合いの相手であるが、それゆえに恋愛をより純粋で神聖なものにすると国男やその友人たち(島崎藤村ら)は感じたのであった。

恋愛といっても、若い男女が一緒になるような機会がほとんどない時代の話である。恋人同士のささやきどころか、一目その姿を目にできないかと女の家の周囲を行ったり来たりしながら煩悶してる。今だったらストーカーである。そして、やはり身分が不釣り合いな恋であったからか、悲恋に終ったらしい。

柳田自身はこの恋について生涯沈黙を守ったのだが、彼の親友であった田山花袋が彼をモデルにした小説をいくつか書いている。柳田は自分の日記を花袋に渡してるから、若い頃の柳田自身が小説に値する恋愛体験として書かれることを願っていたようなところがある。その物語においては、ほとんど口もきいたことない田舎の娘、口を開いてもきっと大したことは言えないような娘が、きっと騎士道物語の女王のように高貴な存在になっている。

今日の恋愛はこんなものからはだいぶん遠くなったのだが、巨視的視点から見れば、ゲーテなどによって導入された恋愛観のコペルニクス的転回が遠く極東の地にまで及んできたその延長線上にある。これも調査らしい調査を経てない仮説にすぎないが、自分は今のところそういう風に考えている。

こうして、ひとたび貶められた女性の地位は再び高められた。それによって、市井の人々の恋愛もまた神聖なものの領域に高められた。だが、これもまた、男によって一方的に女に押しつけられたイメージに女が応えたものである。それで女神とされた女たちが幸福になったかどうか。現代の恋愛が男女ともに納得のいくものとなったか。それについて書きたかったのだが、長くなりそうなので次回に譲る。

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。