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墓(自由を獲得したぼくらが失ったもの)

先祖の墓 

 自分の本籍は岡山。昔の山陽道の街道沿いにあって、今でも古い家々が立ち並ぶ小さな町である。現在は醤油の醸造で有名らしいが、自分のイエも幕末には酒造りが家業になっていた。付近は古い荘園であったところで、中世末期にはその名が見えておる。近世には村の名主や庄屋が酒造業を始める場合が多かったらしいから、大方、その一例であろうと思う。日本のプロト資本家である。江戸時代には山陽道の木戸番(小さな関所みたいなものを監視する役目らしい)を仰せつかっていて、身分は農民なのに名字帯刀を許されていたらしいから、帰農した地侍かもしれない。岡山城にも同じ苗字の人間が勤めておるから、一族の一部が刀を捨てて農民になり、一部が城下で勤め人になったのであろうと想像される。

 非常な旧家の流れであるということは、名だけではなく墓からも窺われる。近所の山には昔から村が共同で所有していた墓地があり、うちの先祖の墓もそこに並んでいる。私の祖父までの墓があるのだが、誰の墓であるかわかるのは曾祖父までである。うちと同じ名を冠した墓がふもとの方にもたくさん並んでいるが、どういう関係であるのかもう不明になっている。

 今ではその後裔が地元には一人もいなくなって、墓を訪れる人もあまりいないのだが、ずっと曾祖父にゆかりのある近所の教会に世話をしてもらっていた。ところが、教会も代替わりが進んで、そろそろ子孫に返したいということになって、いろいろ巡って私の父にお鉢が回ってきた。

 その父も2年前に死んだので、今度は自分らが引き継がなくてはならない。だが、自分たちが訪れたこともないところに先祖の魂が眠っているなんて言われてもぜんぜんピンとこない。うちの父も同じ気持ちだったらしくて、あんな遠いところに埋めてくれるなと言い残して死んだ。

 ご先祖のお墓をこちらに移してもよいのだが、私らもいつまでここに暮らしているかわからないような根無し草である。しかも、子がいないので、そう遠くない将来にまた墓の世話をする者はいなくなる。誰かが引っ越しに便利なポータブル墓でも考案してくれれば別だけど、遅かれ早かれ代々の墓は訪れる人もなく草に埋もれていくことになりそうだ。そういう私も、死んだら同じ運命を辿ることになるはずだ。というより、もう墓を建てる意味がない。

イエの衰退史

 他人の墓の話なんてどうでもいいやと思うかもしれないが、実は日本がこの150年間経験した社会の変化の縮図がここにあるような気もする。ちょうど私が関心を持っている日本の近代化とも関係するテーマなので、ついでに自分のイエの衰退の歴史を調べてみた。

 といっても、もう消えかけているイエであり、昔を知っている人もいなければ、資料が埋もれているような倉も残されていない。結局、断片的な事実を繋ぎあわせて、その隙間を想像で埋めていくしかできない。

 わかっているのは、1886年、曾祖父が岡山中学在学中に同郷の青年たちといっしょにキリスト教に改宗していること、そうして自分の村をぜんぶキリスト教に改宗してしまったらしいことである。1881年にすでに同郷の人が改宗しているから、それに引っぱられたのかと思う。

 岡山は同志社英学校(同志社大学の前身)の布教活動の中心の一つであり、熊本バンドの金森通倫などが入っている。その余波であるらしい。明治初期の青年の一人であった曾祖父は、やはり自我の問題に悩んだ人らしい。身分制が廃止された新しい世で、スマイルズの『西国立志編』や福沢諭吉の『学問のすゝめ』などを読みながら自分が何者であるかという問いに思い悩んだ近代の第一世代なのである。この時期、キリスト教が急速に日本に広まったのは偶然ではない。

 そして曾祖父は同志社に行く。周知の通り、新島襄によって開かれたキリスト教の学校である。徳富蘆花と同期であり、写真などが残っている。蘆花の自伝的な小説『黒い眼と茶色の目』にちょこっと曾祖父らしき人物が登場する。

 その後アメリカに留学したという話なのだが、どこの大学に留学して何を勉強したのかわからない。一応アメリカの大学制度について書かれたものが残っているから、渡米して大学には行ったらしいが記録が残ってない。自分などは金持のぼっちゃんのグランド・ツアーに終わったんではないかと疑っておる。

 曾祖母も同じ頃アメリカに留学していたのだが、こちらはネットで調べたら、新渡戸稲造が米国で発表した日米交流に関する論文に1885年頃にうちの曾祖母らしき人がウェスターン・メリーランド・カレッジというところに留学しているという記述がある。まだ女性の留学が珍しい時代の話であるが、キリスト教コネクションらしい。どういう風に知り合ったのかは不明なのだが、二人は出会って結婚して、1894年には長男(私の祖父)が生まれている。

 おそらくキリスト教つながりなんであるが、イエとイエとの関係より個人の関係を重んじる近代的な結婚に近いものらしい(といっても、キリスト教のイエはキリスト教のイエとしか婚姻関係を結ばないから、イエの関係も皆無じゃない)。今から見ればどうってことないけど、一応曾祖父は醸造を家業とする旧家の長男。自分勝手になる身じゃないはずだ。でも、商売に失敗したのか、曾祖父が田舎で家業を継ぐのを嫌がったのか、もしくは洋行帰りの曾祖母に醤油屋の嫁が務まらなかったのか、理由は不明なのだが、1900年にイエの地所をキリスト教教会に譲るか売却してしまったようだ。

 一説には、悪い親戚に騙されたとか、キリスト教に改宗したので酒を造って売ることがいやになったとも言われているが、記録がないので推測でしかない。とにかく、実家には曾祖父の母親が残り、長いこと教会で賛美歌を歌っていたという話が伝えられているのだけど、どうも家業は捨ててしまったようである。

 余談であるが、後にこの地所に建てられた教会の建物は今でも立っておる。現存する教会の中では最古の建築物らしい。洋風のかわいらしい建物である。この教会は当初は岡山教会に属していたのだが、後にはケンカ別れして独立した教会になっておる。ずっと後になって、横浜の自分の小学校の同級生の伯母がこの小さな教会の幹部であることを知った。世の中けっこうせまい。

 財産を処分する前か後かわからないのだけど、曾祖父は名古屋でタバコで財を成した村井財閥の商社かなんかに勤めたらしい。今風に言うと、田舎の家業を捨てて都会でサラリーマンになったのだ。これも余談であるが、この曾祖父の孫娘の一人は、村井財閥総帥の息子の一人と早稲田で一緒になって結婚することになる。世の中けっこう狭いもんである。

 その後の記録はないのだけど、曾祖父は若くして結核で死んでしまう。残された曾祖母は岡山の実家には帰りたくなかったらしく、自分の実家のある鹿児島へ戻って女学校の英語教師になる。希少なグローバル人材がもったいないと思うんであるが、当時は女の人の職業はこんなものしかなかった。

近代的自由の代償

 要するに、二人は明治のかなり早い時期に自由な個人としての近代的な人生を実践したカップルだったのだ。二人の長男である私の祖父はやはり鹿児島から東大に行って日本郵船に勤める。そうして文字通り世界を股にかけるビジネスパーソンになった。といっても最初はペーペーから始めた「たたき上げ」である。柳田国男のが渡欧したときの『大正11年日記』にもそれらしき名前が見えておるし、日本郵船で初のシアトル航空便のプロペラ機にも搭乗していたいう話が伝わってる。自分が見た記憶のある写真では、イランのシャーの結婚式になぜか招待されて出席しておる。

 戦後はパージにあって仕事につけずに自転車のパンクなど直していたらしいが、郵船での航空事業に関わった腕を買われてか、日航の創立メンバーの一人となる。今では大会社であるが、当初は26人の小所帯である。最後はニューヨーク支店長になって社長の座をうかがうが、銀行とつながりのあるライバルに押しのけられて、日航ホテルの方に左遷されたと伝えられている。本人もあまり幸せでなかったみたいで、マージャンなどで財産をすり減らしていった晩年だったらしい。

 そうやって世界中を飛び回った人生であったが、岡山の田舎へは一度も帰らなかったようである。それでも死んでしまったら、おそらく訪れたこともないし、子孫もたずねてこないような田舎の山に埋められておる。

 その妻となった祖母もやはり牧師の娘で、横浜の女学校でずっと英語で教育を受けた。近代的な才女だったらしい。若い頃の写真を見ても、大きな髷を結った女性が多い時代に短髪で、いわゆるモガみたいな姿だ。その妹はドイツに留学し、大戦勃発を受けて湯川秀樹や朝永振一郎とともに最後の船で帰国したそうだ。女にも国際的教育を受けさせるというのがどうもキリスト教のイエの特徴の一つである。

 その母もまた新潟の古町の呉服屋の娘であるが、やはりクリスチャンであり、若い頃に横浜の女学校に行き英語で教育を受けた人だった。この人が若い頃牧師宛に書いた英語の手紙がイギリスで発見されたことがあって、われわれが新潟に住んでいるとき『新潟日報』にある研究者が投稿したしたことがあった。こんな立派な英語で手紙を書ける娘は誰なんだという話であったらしい。知らせてやろうかと父などは言っていたが、結局知らせずじまいであったらしい。

 つまり国際的とかグローバルなんて言葉が流行る前から、国際化、グローバル化しているイエなのである。うち固有のものではなく、多くの中流のキリスト教の家庭に共通の特徴である。このイエはいわゆる家督を代々引き継いでいくようなイエではない。学歴や教養が家督に取ってかわられている。そうして、信仰のつながりによって血縁や地縁を越えてつながっていく。だから、親戚附き合いも薄い。そんな二人の長男(私の父)にもはや継ぐべきイエなどない。都会で大学に行って、都会で教員になる。海外にはたくさん行ったことはあるが、自分の本籍地には墓の話が来るまで一度も訪れたことはないし、外国語は複数理解できるが、自分の「田舎」の方言は一言も知らない。

 早い時期に家業を捨てた曾祖父のおかげで、後の世代は田舎のしがらみをまったく持たず、職業も、結婚相手も、住む場所も、全て自分で選べる近代的自由人になった。しかも、狭い日本を越えた趣味や仕事を持ち、朝食に紅茶をすすってトーストをかじるような国際人になったのである。ある意味、近代の理想を地でいったとも言える。おかげで、その末裔である我々も、自分の生きたいように生きられる自由の身である。

 でも、その代償が、誰も訪れない草ぼうぼうの墓であり、その存在さえ忘れ去られる先祖たちなのであり、自分は何のために存在するのかと悩みながら歳をとり、やがては老人ホームに追いやられ、死ねば忘れ去られていく自分なのである。

 これはひとつのイエの消滅の歴史なのであるが、タイミングの違いはあれ、多くのイエが同様の没落を経験したのが日本の近代化の歴史なのである。今日の地方の衰退と都市への過度の集中とか、自分探しに悩む若者の増加というのもこの延長線上にある。田舎なんてなくてもいいじゃん、生きているうちが楽しければ墓なんてどうでもいいじゃん、というのが現代的な答えなのだけど、善くも悪くも田舎とか墓というものが持つ社会学的な意味は思ったより深いのであって、これを理解することなしに今日の自分たちの幸不幸も知り得ようはずがない。

(2009年6月24日に加筆)

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