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暴力に「耐える」ための政治学

割引あり

耐える学問

マックス・ヴェーバーというエライ学者さんがいます。仕事のしすぎで心を病み、仕事してないと生きてけないのに体が仕事を拒否するようになるという拷問のような苦しみを味わったんですが、まさにこの悩みを深くするような問いをとことん追求しつづけ、巨大な仕事を遺した鋼鉄の意志の持主です。精確な引用ではないんですが、どうしてそこまでして学問をやるかと問われたとき、「自分が(この世界を)どこまで耐えられるか知りたいから」と答えたと伝えられています。

ふつう学問というのは、飯を食うためでなければ力(知力)を得るためにやるもので、自分の耐久度を試すために学問をやるというのは不思議な話であります。だけども、知れば知るほどこの世界は不条理であることがわかる。アルベール・カミュという作家の定式によると、不条理とは世界と自分たち人間とのあいだの埋めがたい溝である。しかし、それでもその溝がどれほどのものであるか見極めたい。そういう奇妙な願望であります。

このヴェーバーの言葉を読んだときに「うわあ、カッコいいな、オレも言ってみたいな」と思ったんですが、自分はそこまで真剣に学問に向かっているかどうか怪しいので、軽々しくは真似できない。ただ、次のようなことは頭に浮かびました。政治学をやるということもただ「知る」だけではない、「耐える」ことでもあるな、と。

この「耐える」は、所与の現実を「諦めて黙って眺める」ということではありません。ふたつ意味がありまして、一つは、政治と暴力は切っても切れない関係にあるという厳しい現実から目を逸らさない、ということです。もう一つはだけども、「結局は暴力だよ」という結論の手前で可能なかぎり踏み止まる、暴力に解消されてしまわないような政治に徹底的に固執する、あがきつづける、ということであります。この二つの意味での「耐える」があるかぎりにおいて、政治の学などというものが存在する余地が生ずる。逆に言うと、そういう政治学がなければ、ぼくらは「耐える」ことができない。自分にはそう思うところがあります。

怪しからぬ学問

ここで自分が「政治学」と呼んだものは、必ずしも今われわれが有してる政治学と同じものではありません。一般に、今日の政治学は所与の現実を受けいれて、それを律する法則みたいなものを追求する実証科学としての政治科学と、理想の政治、国家とはこういうものであるということを論ずる政治思想・理論という二つの領域に分れています。政治学者はたいがいそのどちらかに特化している専門家たちです。だけども、この二つがきれいに切り離されてしまうと、どちらも政治学としては十分ではなくなる。自分はそう感じています。

なぜなら、政治は所与の現実を何かしらの理想に向かって変えていくものであります。この理想にはふつう、暴力をまぬかれて平和や安全を享受して生を全うするというものが含まれます。しかしながら、この理想の実現手段として暴力が組織的に用いられる領域でもあるんです。

いつでありましたか、北欧のある国で大規模なテロ事件が起きたことがありました。報道によると、容疑者はマキャベリとかカントとかジョン・スチュアート・ミルなどといった思想家に影響を受けたらしい。カントやミルの思想をどのように使えば無差別大量殺人が正当化できるのかよくわからなかったんですが、いわゆる直情型ではなくいろいろと本を読んで勉強していた人ではあるらしいんです。周囲に生きる人たちから孤立して独りよがりの考えを育んでしまった人だとすると、自分のような人間にとっても他人事ではない。そんなことを考えさせられた事件でした。

宗教過激派によるテロが流行る前は極右テロとか極左テロというのがあったように、昔からテロと思想というのは分ちがたく結びついています。暴力を正当化する思想抜きのテロは単なる人殺しにしかならないから、胸を張って堂々と行うにはそれなりの理論武装が必要になるとも言えます。そして、特定のイデオロギーや宗教に限らず、政治思想全般において暴力は解決すべき問題であると同時に解決手段でもありました。つまり、政治思想というのは何らかの形で暴力を正当化してきたんです。

政治思想とはそんな怪しからんものなのか、そんなものを若い人たちに教えるなんてとんでもない。そういう声も聞こえてきそうですが、そういう人たちが無意識にしろ信奉しているであろうリベラルの政治理論でさえ、実は例外ではありません。

個人から暴力行使権を取り上げて、国家に独占させる。言ってみれば、分権的・非組織的暴力行使を禁じて、暴力を集権的にプールして、高度に組織化された暴力によって他の暴力を圧倒する。そうやって平和や社会秩序を守る。むろん、リベラル社会においては国家にさまざまな制約が課されるのですが、論理としては、分散した暴力という問題を集権的に管理された暴力によって解決してる。人命や財産を守るという目的のためにです。

などというと難しく聞こえますが、今日われわれが誰かの暴力にさらされたときに、お巡りさんを呼びますね。このお巡りさんは何者かというと、国家のエージェントであります。お巡りさんの背後には、プールされた暴力に裏打ちされた国家の権力があります。伝家の宝刀は抜く必要がないかもしれませんが、やっぱり背後に厳然として控えている。これが一人の人間であるお巡りさんの言うことを、たいがいの人が聞く理由であります。このお巡りさんがいるから、ぼくらは自分たちでは暴力を用いることなく、安心して生活していけるんですね。

でも、そうした強大な暴力が、何の罪も犯していない市民に向けられるばあいだってありうる。権力の濫用と呼ばれるようなものですね。ですから、リベラルの政治理論では、憲法とか人権などで権力の行使に縛りをかけている。できるからといって何でもやっていいわけじゃない、これこれの目的には国家権力は使ってはいけない。そういう縛りですね。それでも市民の権利を侵害するような国家権力には、最後の手段として革命的暴力が許されてもいます。有名な米国の独立宣言などを読むと、「アメリカ革命(日本で独立戦争として知られるものを米国ではこう呼ぶ)」はそうした理論に依拠した暴力革命であったわけです。

しかし、どんなに立派な目的をもっていようとも、暴力は暴力です。嫌がる人に何かを強制するものであります。それでも言うことを聞かない奴は、この世から消してしまいます。だから、どんなに高尚な理想を掲げる思想でも、現実の生活の場、そしてそこで生きる人々から切り離されてしまうと、どうしても今を生きる人々の命/生活/人生を軽く見てしまうことになる。理想が高尚であればあるほど、今ここで共に生きる同胞たちの生き方を蔑視してしまって、それを犠牲にする際の心理的な抑制が弱くなる。「より高い理想を実現するために、この程度の犠牲は仕方がない」ということになってしまう。

だから何イズムであろうが、思想なんか勉強するとろくなことにならん、という話になりかねないんですが、今日ではぼくらの社会制度自体がこのイズムによって作られ、またぼくらは特定のイズムに基づいた言語を日常的に喋っています。所与の現実がすでに理想によって形作られてるんですね。すなわち、ぼくらは国家という高度に組織化された暴力装置のもとで生きていて、平和や安全はこの国家によって脅かされることもあるんですが、同時に守られてもいるんですね。

暴力使いの暴力嫌い

今日リベラルな社会に住む人びとにとっては、政治と暴力の関係には一応決着がつけられています。ですから、こうした問題を個人として考えさせられる機会は多くありません。ただ私的な暴力を慎むだけでよろしい。汚れ仕事は誰かほかの人がやってくれます。だけども、まだこの世界にはそうしたリベラル的な暴力管理が及ばない領域が、国内外にいくらでもある。そこにまでリベラル社会の暴力観を適用しようとすると、当然のことですがうまくいきません。

なぜなら、リベラル国家でさえ、その創建には暴力が用いられている。まずは暴力があってはじめて、リベラルな社会秩序が導入され、暴力が抑制された状態が暴力によって維持されているわけです。それがまだないところで暴力否定論を説いたところで、あまり説得力はないわけです。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。