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蟲だらけの世界で生きた人々は宇宙や人生をどう見たか

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。ウイルスのせいで何かと不自由が多いご時世ですね。退屈してイライラされている方も多いかと思います。そこで、今日はまた気楽にアニメの話でもしようと思います。気楽にと言っておいて、いつもややこしい話になってしまうが私の悪い癖ですが、今日は最後まで気楽で通そうと思っています。ただ、気楽といっても、自分の仕事は人に考えさせることと心得てますので、みなさんがおそらくよく知らない世界についての話です。

ご紹介するのは『蟲師(むしし)』という作品です。ご存じでしょうか。調べて見たらもう二十年近く前の作品ですが、私はつい最近娘に見せられたばかりです。妖怪ものかと思ったら、『ブラック・ジャック』のようなヒューマン・ドラマでした。原作はマンガで、映画にもなっているようですが、自分はテレビ・シリーズの一部しか見ていません。

少し見ただけなんですが、ちょっとおもしろいなと思う点がいくつかありました。どういう経路であるかまだ調べていないのですが、そこに今まで私が記事でご紹介してきたような、民衆の宇宙観や人生観みたいなものが流れ込んでいるんです。

これは民俗学とか宗教学とか呼ばれる分野で扱われるものなんですが、今日も必ずしも完全に廃れてしまったものでもない。何となくわれわれの心の隅の方にあるし、だから社会の片隅にその名残が残っていたりする。われわれ自身が知らない「無意識の自分」というものを知るためにも役立つと思います。

生命と「ムシ」

ここに出てくる蟲師という人々がいるのですが、ムシと呼ばれるなんだかヌルヌル、クネクネした気持ち悪いものを退治するのを生業としています。その蟲師のギンコさんという人が主人公です。舞台は近世日本の農村や漁村っぽいのですが、なぜかギンコさんだけは明治・大正を通り越して現代風の洋服姿なんで、時代設定がいつなのか不明です。

さて、このムシというものはいろいろと悪さをするので蟲師に退治されるのですが、実をいうと悪者ではないらしいのです。

この宇宙の底の方に生命エネルギーの流れでできた大きな川のようなものがある。そこから生きとし生けるすべての生物は命を得ている。われわれもまた「魂」をこの流れから得て、死ぬと「魂」はその川へ帰っていく。昔は、漠然とながらこんな風にイメージしてる人が多かったようです。

そして、『蟲師』においては、ムシというのはこのエネルギーと生物の中間のような存在として説明されています。生物以前の、原始的な生命体のようなもので、ちょっとウイルスに似てますね。見える人にしか見えないんですが、見た目もなんだか電子顕微鏡で見たウイルスや細菌のようなものが多いです。

以前も何度かお話しましたが、この宇宙全体に生命エネルギーのようなものが貫流していて、すべての生命はそこからエネルギーを得ている、という宇宙観は珍しいものではありません。日本に限らず世界中に似たような見方があります。相当古い時代からある考えだと思われます。ちょうどタイミング悪く古い記事を有料にしてしまったのでお勧めするのも気が引けるのですが、興味がある方は次の記事を読んでみてください。

しかも、このような民衆思想は近代になっても完全に廃れたとも言えないようなところがあります。たとえば、ヨーロッパでは宗教のみならず、「生気論」という疑似科学みたいなものとしてインテリの間でも長く残ります。上の記事でも紹介したように、民衆のユートピア像にもまたこの生命の流れのような考えがあります。

ケチが嫌われるのは、この生命の流れからエネルギーを抜き出して囲い込むことによって、宇宙全体の生命力を弱らしてしまう、そうやって多くの生き物を生きれなくしてしまう、これ以上の悪はないという考えに基づいていたようです。米騒動なんかもそういう文脈でとらえられるわけです。マスクの買い占めぐらいでは暴動にまでは発展しないかもしれませんが、日々の糧であると民衆がこれを許しておかない。これも以前どこかでお話したことがあると思います。

ムシも人間と同様にこの生命の流れにあるわけだから、ムシが悪なのではない。ムシもただ生きようとしている。そうすることによって人間に害を与えてしまう。だけども、宇宙の摂理の中ではムシが悪で人間が善であるとは言えない。どちらも生命としては同等である。

だからギンコさんは、ムシを退治するんですが、なるべく殺さないようにする。彼の理屈はこうです。人もムシもどちらも生命の流れである。それが衝突することがあるのもまた自然の摂理である。だから知恵をもつ人間の方がムシの方を避けてやればよい。他の蟲師たちは必ずしもそうは考えない。われわれがウイルスや悪い細菌、害虫、害獣などを扱うように、ムシを悪として、人間の敵として除去しようとする。ちょっとむつかしい言い方ですと、人間中心主義なんですね。

ギンコさんの方はそうではない。今風にいうとエコ・システムみたいな考え方をもっている。ギンコさんが蟲師になったのは、ある事情でムシが寄ってくる体質になってしまったからです。だから一ヶ所に留まっているとムシが集まってきて、周囲の人々に迷惑がかかる。それで、一生を一人で放浪してまわるように宿命づけられている。しかし、そうでいながらムシを憎んではいない。どこか愛情に似た感情を抱いている。

そんなのは個人の趣味の問題だ、と言われる方もいるかもしれません。しかし、ひとつ人間中心主義が批判されるようになった理由を考えてみてください。この宇宙とか自然というものを人間の都合で作り替えていってしまうと、その全体の秩序を乱して、結局は人間自身にブーメランのように返って来る。結局はオレたちも損をする。こんなのも人間中心的な議論ですが、人間自身の利益を守るためには人間中心主義でやっていってはならないという「啓発された自己利益」ですね。

環境破壊などが啓発されない人間中心主義がもたらした最たる悪なんですが、どうもウイルスが多く発生するようになったのも人間が生きるために自然の秩序を乱し過ぎたことが一因のようで、環境問題の一部であるとも考えられる。出たものを除去していけばいいという発想だけでは問題の解決にはほど遠いようなんです。そんなことを考えながら『蟲師』を見てみると、また新しい視点が得られるんじゃないかと思います。

親から子へ引き継がれる呪い

さて、生命の流れの話はこれで終わりにして、もうひとつ興味深かったエピソードを紹介しましょう。この蟲師という人々の中にも旧家みたいなものがあるようなのです。そこの一人娘は人里離れた家に老婆と二人暮らしをして、全国の蟲師から退治したムシの話を聴き取って記録している。ギンコさんもときどきその家に立ち寄る。

この娘がムシの記録をとるのはただ資料としてではない。そうすることによってムシを封印している。実はこの家系にはある強力なムシの呪いがかかっている。何代か前の当主がそのムシを封じたときに呪いをかけられ、全身真っ黒になった。そしてその子もまた体の一部が黒く痣になって、その部分は自分の思い通りに動かない。言ってみれば、障がいが親から子へと伝えられていく。だけども、ムシについて書いて封印することにより、この呪いが徐々に解けていく。

そういうわけで、この家系の娘たち(女系らしいです。巫女の系譜ですね)は一生書き続けなければいけない。書く時には痣に激痛が走る。それでも書かなければならない。自分の代では呪いは消え去らない。でも自分が解いた分だけ子は少ない呪いを引き継ぐ。そうして少しずつ呪いを解いていって、現在の当主である娘は片足にだけ痣が残っている。

この足が不自由な娘は、子どものときには反発するのですが、老婆からその秘密を聞かされて、最終的にはこの宿命を受け継ぐ決意を固めます。親に対して子が「自分のものはぜんぶ捨ててから死んでね」と断捨離を要求するわけにはいかないということを悟るんですね。

これもいつかお話しましたが、かつての日本人の生き甲斐というのは、親から受け継いだ家督を保守改良して、それを子に引きついでいくことでした。そうすることによって、果敢ない人生に個を超越した意味を見出したわけですね。これが個人の短い人生のなかで帳尻をつけようと思うと、なんだかばからしくてやってられないようなことも増えるわけです。宣伝みたいになって嫌なのですが、もっとよく知りたい人のためにリンクを貼っておきましょう。

この娘の場合は、家督じゃなくて呪いという負の遺産なんですが、やはり子や孫の苦しみを少しでも軽減しよう、できればこの苦しみは自分の代で終わりにしようとして書いている。そうして一生を書いて過ごさないとならない。うんざりするような話なんです。その代わり、自分が何をすべきかがわからなくて退屈とか不安なんてことは死ぬまでないんです。不幸の満貫を背負いながら「すべてよし」と言い切ったオイディプス王を思い起こさせます。これは読まなくてもいいですが、宣伝ついでにリンクを貼っておきます。

いかなる遺産も祝福であると同時に呪いという側面があるんですが、このムシの呪いもまたそういう意味では遺産ですね。上記の生命の流れという考えとも関連していて、個体としての生存期間を越えた生命の流れの中に自分も埋め込まれている、と考えることによって、人は果敢なく惨めな自分の生を未来なり宇宙なり目に見えないものと関係において正当化した。そうして絶望のなかに希望を見出し、生きる力を得た。可哀そうなんですけども、またちょっと羨ましいような話だと思いませんか。

宿命を負った者同士の愛

つまり、もう一度繰り返すと、この『蟲師』には、かつて民俗学者や宗教学者たちが発掘した民衆たちの宇宙観や人生観に通ずるものがあるんです。厳密に同じものではないんですが、われわれが忘れてしまったような宇宙観や人生観に気づかせてくれるようなものがある。

少し年寄り臭い話になったので、最後に、この娘とギンコさんのあいだの関係にも触れておきましょう。この娘さんもまたムシを封印しながら、ムシを悪としては捉えていない。ムシにひどい目に遭わされているんですが、そのムシを慈しむような心がある。そういうわけでギンコさんと気持ちが通じ合って、単なる仕事の関係以上のものがある。友人でもある。恋愛感情とも言ってもよいものがあるようなんですが、ただ二人はそれぞれの宿命によって分け隔てられてる。

というのも、娘の方は一生人里離れた場所で呪いを解き続けなければならない。自分のためだけではなく子孫のために生きなければならない。ギンコさんの方は一生放浪するように宿命づけられている。そしてそのうちにムシに食われて死んでしまうかもしれない。二人ともそれを知っている。だから、互いに気持ちを打ち明けない。

だけども、宿命を背負った者同士として、二人はつながれている。たとえそれが二人を分け隔てる宿命だとしても、宿命を引き受けて生きる者同士の相互理解と連帯がある。

「私が呪いを解き切ったら、ギンコと一緒に旅をしたいな。でも、その頃には私はもう老婆だがな」という娘に、「ああ、待ってるよ。その前にオレが虫に食われなければな」と答えるギンコ。

淡々としたところが余計にせつないんですけど、どこか真似できないような強い信頼が感じられる。たぶん、ふたりはこの後またすぐ別れるんですが、別れても心のどこかではつねにつながっているんだろうな、と思わせられる。そうして生きているかぎりはまた会いに戻って来る。自由に生きられて一緒になろうと思えばいつでも一緒になれる者以上に、二人の間には強い絆があります。これは民俗的なものとはちがうんですが、愛というものについても考えさせられます。

おっと。ここらへんでやめておかないと、また話がどんどんややこしくなりますね。とにかく、少し興味深いアニメなのです。ムシみたいなものに囲まれて家に閉じ込められているこの機会に、みなさんもぜひご覧になってみてください。

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