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死に至る病が奇跡を生む、それをぼくらは文明と呼ぶ

 鉄道が時刻表通りに運行されはじめた時、人々はわが目を疑った。予想以上に早めに職場に辿りついた労働者たちは、何か損をしたような気持になった。いつも遅刻しては交通機関のせいにする労働者たちにうんざりさせられていた工場主たちも、また驚きを隠せなかった。遅刻の言い訳が一つ減ったことで迷惑した者もいたが、全体としては、それを何かの魔術か「奇蹟」のように受けとり、感謝した人が多かった。もはや遅刻を恐れて何時間も早めに出掛ける必要はない。時間泥棒の一人が逮捕されたわけで、街での人々の生活はより合理的になった。

 彼らは感謝すべきであった。鉄道のこの信頼性は、多くの犠牲によって購われたという意味では、真に「奇蹟」であった。鉄道員たちの生活はこの奇蹟によって以前より惨めになった。彼は彼自身とその家族の幸福を犠牲にしなければならなかったが、それに対する報酬は客の鉄道員に対する態度がかつてほど敵対的でなくなったこと以外には何もなかった。反抗する者たちの意志はこなごなに打ち砕かれねばならなかった。そのためには、しばしばこん棒と流血を要した。それは一つの小さな「革命」であった。

 しかし、数年も経つと、人々は汽車が常に遅れて到着し出発していたことがかつてあったという事実をすっかり忘れてしまった。彼らは列車が時刻表どおりに運行されることを織り込んで日々の計画を立てるようになった。「奇蹟」は「当然」や「自然」となり、感謝されることはなくなった。その代わり、ちょっとでも遅れが出ようものなら、自分に最後に残された尊敬を拒否されたとばかりに怒り狂う乗客が増えた。奇蹟への感謝は当然の権利意識に取って代わられたのだ。事故でも起ころうものなら、乗客の生命を何とも思わぬ悪魔の存在が確認されるまでは収まらなかった。そういうわけで、いったんは神となった鉄道員たちは、また人間の地位に引きずりおろされただけではすまなかった。時に人間以下の存在として扱われることも多くなった。

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たぶん書かれないであろう小説からの抜粋。「奇跡」とは自然には起きないようなことを、神さまが自然の法則を枉げることによって起こすこととされる。しかし、実は人間も奇跡を起こせるし、今までも奇跡を起こしてきた。人間は自然の本性に反することをあえてやる能力を有している。自分の生命を損ないながらも、何らかの実在しない理想を実現しようとすることができる。そうして人間は自然の桎梏からみずからを解き放つ。

健康が損なわれる状態が病気であるなら、人間であることは病気である。死に至る病とは人間である(コジェーヴ)。だが、病であるからこそ、人間は奇跡を起こせる。自然の中にある奇跡とは人間である

だけど、このことを忘れてしまうと、自らの手になる奇跡が鉄の檻に転じる。奇跡が第二の自然となってしまう。病気が文明を生むことを忘れて、人は健康を追い求めることになる。その健康とは、外の記憶を失って檻の中で心安く暮らせるということにほかならない。健康な人間は奇跡のなかに生きつつ、奇跡を生み出す能力を失う。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。