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教科書に出てこない日英・日米関係

前回の記事の続きがあるんだが、時間がなくてまだ書きあげてない。そうこうしているうちに、母の思い出話の方が溜まってきた。別に急ぎの話ではないが、それだけにうかうかしてると自分も忘れてしまう。まとまりがない話だが、自分用の覚書として、まずこちらから書きつけておくことにしようと思う。

ハリファックス先生とメレーさん

母の曽祖父は朝河貫一のいとこにあたる。朝河貫一というのは二本松出身の歴史家、イェール大学教授であるが、一般には戦前のリベラル知識人として名を知られている。日米開戦前夜に戦争を止めようと奔走したが、かなわなかった。開戦後も米国に留まりつづけたが、アメリカ国籍に帰化した方がいいという勧めは断って、もう一つの祖国への忠誠を貫いた。

朝河の家は二本松藩の藩士であったから、明治の御代では逆賊の汚名をかぶった。いずれにしても、廃藩置県と秩禄処分で下級武士たちは仕事を失っている。この没落した家を復興するという使命を多くの下級武士の息子たちが自らに課したが、朝河も例外ではなかったようだ。

しかし、官職は薩長に独占されてるような世の中である。そこで学問を通じて立身出世をはかる人が多かった。朝河も安積中学(当時は福島尋常中学と呼ばれた)に入学するため郡山に移った。開成山神宮に下宿してたらしい。とにかく猛烈に勉強した。明治初期の知識人には、まだこのイエの感覚が残っており、これが人生の目的であり生き甲斐になった。

当時、安積中学には英国人のハリファックス先生(トーマス・エドワード・ハリファックス)という人がいた(1890~1892)。この人がやって来るときに、洋風の住宅を建てなければならないということになった。この責任者となったのが、いつぞや話した「タマキのじいちゃん」(母の曾祖母の叔父)であった。

タマキの大叔父がとくに困ったのは便所であった。洋式のトイレというものがどういうものか、話を聞いてもわからない。わざわざ東京と横浜まで見に行ったそうだ。

そうやってせっかく苦労して家を建てたのだが、数年でハリファックス先生は解雇されてしまう。学生には人望が厚かったのだが、お雇い外国人によくあったように、キリスト教を学生に布教したという咎らしい。おそらく朝河も、ハリファックス先生から英語だけなくキリスト教についても教わった。朝河は解雇に反対して嘆願書を提出しているが、先生は結局解雇された。

このハリファックス先生には娘がいて、母の実家では「メレーさん」と呼んでいた。ウェブで調べると、娘の名はメレーでもメリーでもなく、アグネス・フローレンスなのであるが、一人しか娘はいないようであるから、同一人物らしい。

ハリファックス先生の家は、母の実家の通りを挟んですぐ前だったから、ある日、母親が娘を連れてきた。それ以来、母の祖母(上の記事に出てくるおハツさんの娘)はメレーさんと親友になって、毎日遊んでいた。この思い出がよほど印象に残ったらしく、母などは祖母にはメレーさんしか友だちがいなかったんじゃないかと訝ったほど、メレーさんの話ばかりしてたらしい。

だから、「朝河さんはどうしたかねえ」と並んで、「メレーさんはどうしたかねえ」というのが、母の実家で引き継がれてきた話題の一つであった。自分が調べてみたら、メレーさんは父親と一緒に朝鮮に渡り、そこに骨を埋めたらしい。

カリフォルニアのアオキさん

母の実家は福島の郡山で女学校を経営していた。どういう縁であるか、そこに日系アメリカ人のアオキさんという人が留学していたことがある。実家はカリフォルニアであったらしい。日系移民のなかには、子どもに日本式の教育を受けさせたいという人も多かった。特に女の子をもつ親はそうであった。

このアオキさんはもう半分アメリカ人で、母の実家にいろいろな逸話を残した。寮に入っていたのであるが、風呂を焚くとアオキさんが真っ先に入って、上がるときに湯を全部抜いてしまう。アオキさんにとって、ヒトの使った湯につかるなどということは想像もできないことであった。アメリカでは便所と風呂は同じところにある。湯を流さずそのまま使うのは、便所を使った後に水を流さないのと同じような感じがしたらしい。

そんなこんなでいろいろな文化摩擦があって、もうこんなところには住めません、引っ越します、と言い出した。そして、下宿先を見つけて、翌日、荷物をまとめて出て行ったかと思うと、その日のうちに戻ってくる。どうしたのかと尋ねると、昨日部屋を見たときには家具が入っていたのに、今日行ったら家具が一つもない。これじゃ住めないということで解約して戻ってきたということだった。

そうこうしてるうちに、日米関係がどんどん険悪になってきて、どうやら戦争になりそうだ、ということになった。そこで、用心のためにアオキさんも帰国させた。戦争中も「アオキさんはどうなったかねえ」と噂し合った。当時は知らなかったが、他の日系移民といっしょに収容所に送られてしまったかもしれない。それでも、戦後になってチェリーの瓶詰なんかを贈ってきたらしいから、無事生き延びたのである。

ダイアンとワニー

母の実家の経営する女学校は、戦争が終わってすぐ、祖父、父と一家の大黒柱を立て続けに失ってやっていけなくなる。そこで土地の一部を売って東京に移ることにする。

そこで久我山に住む義理の伯父に頼んで、よい土地を探してもらうことにした。伯父が見つけてきたのは成城の一角であった。当時の成城はまだ宅地より農地が多かった。宅地面積が農地を越えるのは戦後もしばらく経ってからであった。久我山でさえ、郡山なんかよりずっと田舎に見えたそうだ。

しかし、成城の土地は直前になって地主が誰か他の人に売ってしまった。そこで、伯父は国立と国分寺のあいだの土地を見つけてきた。多摩蘭坂の上り口を左に折れて、坂を上りつめたところである。タマラン坂という変な名の坂は、一橋の運動部の学生があまりの急こう配に、「これはたまらん」と言ったのが由来とされているが、どうも後に作られた伝説臭い。

自分が知っている「おばあちゃんち」はそこであった。うちは父方の家族はあまり仲がよくなくて、滅多に訪問し合うことがなかったが、母方は仲良しで正月などはまだ親戚一同が集まっていた。自分もこの祖母の家に行くのが楽しみだったから、その坂を上っていくときの気分はいまだに覚えている。当時、忌野清志郎がその付近に住んでいたと知ったのは、もちろんずっと後になってからであった。

母が越してきた1950年代は、国立もまだ田舎で下水も通ってないし、上水も井戸を使っているところがあった。近所に大きな地主さんがいて、駐留米軍のための宿舎を建てて貸していたから、アメリカ人がたくさん住んでいた。そのなかに二人の小さな息子がいる軍属の人がいて、この兄弟がよく母の家に遊びに来た。お父さんはエンジニアで、弟のワニーは父親からもらった古い時計などを分解しては組み立て直したりしていた。とにかく愛らしい兄弟で、みんなから可愛がられた。

生粋のアメリカ人である彼らも、その祖父の代に、スイスのアルプスのふもとの村から五大湖周辺のどこかの州に移民してきたという話である。テキサスに住んだこともあって、「テキサスってのは、とにかく何でもバカでかいんだ」などと言っていたことを、母は後になって思いだすことになる。南米にいる私を訪ねてきた際に、飛行機の上からテキサスの荒野を見おろして、その広さに驚いたときである。なるほど、こんなところなら何でも大きいわけだ、と納得したそうだ。

兄はダイアンという名で、母の誕生日にブラウスを贈ってくれたお礼に、宝塚に連れていったことがある。ちょうど、先祖本願の地であるアルプスを舞台にする劇であったらしいから、ダイアンも大喜びしてたようだ。

当時は基地に反対する運動も激しくて、砂川闘争が行なわれていた。あの地主の大学生の息子なども、父親が米軍相手に商売しているくせに、やはり基地反対のデモなどに参加して、わっしょい、わっしょいと騒いでいたらしい。こんなのも1950年代の日本の一風景である。沖縄などの基地周辺では、まだ完全には過去になってないのではないかと思う。

母はまだ「ダイアンやワニーはどうしてるかねえ」と言い続けている。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。