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よい趣味とは誰の趣味のことであるか?

「『お前って趣味悪いよな』という資格」と題した記事の続き。まだ読んでない、あるいはもう忘れちったという人のために、前の記事のリンクをこの記事の最後に貼っておく。

「趣味がよい」とは

アーレント/カントの趣味判断論にしたがえば、「趣味のよい」人というのは、①自分のなかに流行に左右されない確固とした判断基準をもつ人のことだが、さらに、②他人の趣味を考慮し、自分のやりたいことを犠牲にする人のことでもある、と言えそうである。

一見したところ、相互に矛盾する命題である。自分の基準があるなら他人の基準に合わせる必要はないし、合わせたら自分の基準をもつ意味がない。だが、実際に、よい趣味の人は独りよがりではない。自分がこうしたいというよりは、他人に何らかの快や満足を与えることを優先する人である。それが自然にできるような人を、「趣味がよい」と形容するのである。

この矛盾は、ひとは自分より他人をより公平に判断することができる、という点を理解すると解ける。自分を公平に見つめるのはむずかしいが、赤の他人だったら比較的冷静に見ることができる。だから、自分の趣味がいいかどうかを判断するには、他人から自分がどう見えるかを考慮した方がよい判断ができる。

つまり、趣味のいい人とは、自分の私的判断よりも、見る側の他人の立場を優先することにおいてぶれを見せない人、ということになる。こうすれば二つの命題のあいだの矛盾はなくなる。たとえば、最新の流行に遅れていないところを見せたいのを我慢して、相手に快を与える、あるいは少なくとも不快を与えないような選択をする場合である。

公平な観衆

だが、相手が自分にとって利害関係のある、あるいは関心を抱いている人であれば、ひいき目、ひがめで見るであろうことが想像される。具体的にいえば、自分に好いてもらいたい人は何でも褒めるであろうし、自分を嫌っていたりライバル意識をもつ人は何でも貶すだろう。この人たちは純粋な趣味判断をしていない。そうではなくて、自分自身の利害を考慮した戦略的な行動をとっている。

そうすると、自分の趣味を判断するときも、自分とは無関係の第三者の意見の方が頼りになる。だから、自分と何の関係もない他者が自分を見たときにどう思うか、を想像してみた方がよいということになる。

趣味のいい人がもっている基準とは、この利害・関心のない第三者の基準である。他人の眼が内面化されて、それを通じて自分を見ようとすることが習慣化している。だから、共感力、つまり他人の立場に自分を置いて考える力がよい趣味の一つの条件になる。

ちなみに「利害がある」と「関心を抱く」というのは、日本語では直接つながらないのであるが、ラテン語起源の西洋語では一つの語である。英語だと interested である。interest は動詞でもあり、「(あることが)人に関心を抱かせる」という意味である。だから、interesting (興味深い、面白い)という形容詞にもなる。

語源を調べると inter (間に)と esse (ある)の合成語らしいから、文字通りにとれば、何かの複数のものの間に置かれている、つまり巻き込まれていることである。日本語の「当事者」の訳語のひとつは、interested parties である。

だから、利害・関心をもたない(uninterested)他人というのは、特定の立場に立つ人々でも当事者でもない。趣味のいい人は、あの人だったらどう思うだろうとか、この人の眼にはどう映るだろう、とは問わない。そうではなくて、自らの立場を度外視して、利害をもたない態度で物事見る人々の眼で見ようとするわけである。そういう人たちに伝達可能であればあるほど、よい趣味になる。

言ってみれば、舞台の上で演じられる劇を、みずからは巻き込まれずに観客席から眺める観客たちの判断が、趣味の良し悪しを決定する。趣味がいいとか没趣味であるとかいった判断は、俳優の演技や劇の筋の客観的な属性ではない。そうではなく、観客がそうした演技や筋を受容するときに引き起こされる主観的な状態である(だから、例えば運動会で自分の子を応援するときの親のような観客は失格である)。

そうなると、「いい趣味である」とは、なんのカンケーもない人びとの心の中に、何らかの快や満足を引き起こすような、そういう表象の仕方について言われることである。

ということは、趣味がよいかどうかは、自分では巻き込まれていない観衆によって判断されるのである。言ってみれば、公平な観衆の趣味がよい趣味なのである。

趣味の普遍性

ピエール・ブルデューは「趣味」は階級利害と結びついていると指摘してカントの『判断力批判』を批判した。

ブルデューによれば、趣味とは階級差別化の手段である。「必要」から距離をおく余裕のある階級が、そうでない階級との差異を際立たせるために作り上げるものである。実用的ではないものに暇と金をつぎ込める階級が、成り金連中には簡単に身につけられないような教養とか文化を武器にして、社会の階梯を上ってこようとするものを突き放すんである。

ここでは、趣味は階級闘争の手段である。階級的利害や関心から切り離された趣味が存在しうるか否か、怪しいのである。

アーレントは、ブルデューとは反対に、趣味判断の没利害性をカントから取り出してくる。自分に利害のある物事に関しては、われわれの判断は容易に偏る。だが、自分とはまったくカンケーのないものに対しては、より公平な判断が下せる。そういう理屈である。

たとえば、われわれは野に咲く花を美しいと感じる。この快い感情以外には、花は何の利益もわれわれには与えない。それでも、われわれは花が美しいと感じ、また他のひとびとも、自分の利害・関心を度外視しさえすれば、同じように感じる、ということを期待する。

いな、期待しているだけではないらしい。カントによれば、「この花は美しい」は、「私はこの花が好きです」と同じ意味ではない。前者は、他人にも同じように感じることを要求するのであって、「この花は私にとって美しい」というのはおかしな言い方である、とさえ言う。

上にも書いたように、「この花は美しい」という趣味判断は、その花の客観的な属性を述べているわけではない。そうではなくて、その花を目にしたときに自分の心に快や満足が与えられると言っているわけである。言ってみれば、「美しい」とは主観と客観が入り混じった主客未分の状態である。それだけではなくて、それはすべての人の心にもまた快や満足を与えるべきである、とも言っているのである。

そうなると、「アイスクリームは苺が好きか、それとも抹茶か」という「人それぞれ」としか言えないような趣味とは異なる趣味があって、それは批判の対象となりうる。

アーレント/カントの議論は、階級利害の向こうにある人間としての共通の感覚を前提としている。ある階級の一員としては、われわれの判断(趣味判断も政治判断も)は階級的な(あるいは他の種類の)利害によって歪められるかもしれない。しかし、ひとりの人間として考えることができるかぎりにおいて、普遍的な判断に近づく。つまり、こちらの階級だけではなく、あっちの階級にも受け入れられるような判断は、この可能性にかかっている。

はたして、あらゆる利害関係や個別的関心から自分を抜き出して考えるなんてことが可能であるかどうか、議論の余地があるのであるが、そう考えないかぎり、確固とした判断基準を欠く政治もまた階級間の対立を言論によって解決することは不可能になる。これは階級でなく民族とか文明のような集団でも同じである。

自分が書きたいところまでたどり着くにはまだ道半ばなんだが、今回はここら辺でいったん終わりにしておこう。

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以下は、前回の記事へのリンクである。


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