マジョリティ受難の時代?(ポリチカリーにコレクトなことについて)
シェイクスピアと教養の話の途中なんですが、ネット上で興味深い論争に出会って、久しぶりに(性懲りもなく?)口を挟みたい誘惑にとらわれたので、こちらを先にあげておきたいと思います。だけども、どちらの陣営をも無条件に肯定するような内容とは言えないので、直接参入するとウエメセのクソリプだと思われてしまいそうです。そこで、こんなところで独り相撲を取ってみようと思います。論戦の場から一歩下がって考え直してみたいというソトメセの需要もないことはないでしょうから、その材料にでもなればうれしいです。
さて、最近はマジョリティ受難の時代というか、マジョリティに属するというだけで引け目を感じさせられるようなことが多いですね。自分が選ぶ自由のない属性によって「貴様は劣った奴だ」と決めつけられるのがマイノリティの不幸であったわけですが、マジョリティに属する人もまたそれを感じさせられることが多くなった。
ヘテロな男であって、五体満足であって、メンタルにも特に問題がない。そんな人が何かを言っても、他人の共感を得にくい。大きな成功でも収めてないかぎり、何を言ったところで「へえ、そう。よかったすね」くらいでスルーされる。苦労話や不当な扱いをされてる話をしたところで、「なにを贅沢言ってる、それはおまえ個人の問題だろ」くらいにしか思われない。同情されにくい。みんなが集まって話をしてるような場所では、つまらない、ありふれた奴ということになって、なんとなく肩身が狭い。
だから、せめて少しはメンタルだけでも病ませてやろうという気にもなるんですが、これがどうも長続きしない。なにかちょっとでもいいことがあると、いつのまにか鼻歌なんか歌っていて、病んでるはずのメンタルがうきうきと浮かれてる。そして、いったんはすべての希望を放棄した人間には、この「ちょっといいこと」を見つけ出すのがそれほど困難でないときている。一杯のコーヒー、人の家の庭さきに咲いた花が、もうありがたく感じられる。
なんてことを言うと、「こいつはもともとメンタルが強いんだ。だからおれらの気持ちがわからんのだ」と思われて、ますます共感が得られなくなりそうです。メンタルが弱いよりは強い方がよいので喜ぶべきなんでしょうが、それで交際の範囲が狭まるのはやはり悲しいわけであります。しかも若い人から嫌われるというのは、「もう自分は若くないんだな」と思い始めた人生の秋においては、格別につらい経験であります。
いったいメンタルの強弱というのはどのように測られるべきなのか知らんのですが、ぼく自身は強い人間であるという自覚はあまりありません。というのも、思春期から青年期にかけての自分は、社交的に人並み以上に不器用で傷つきやすい陰キャ野郎でした。他人の目を過剰に気にする自意識過剰のタイプですね。その頃は心の病気と認められたものが今みたいに豊富でなかったんですが、自分が「異常」ではないか、「変態」ではないかという漠然とした恐れ(ときにこれが自負にもなる)には付きまとわれていました。
ですから、いま若い人が書いてるような文章は書いたことがないですが、そのようなものを書きたくなる気持ちは理解できるような気がする。というのも、若いころの自分はあまりものを書きませんでしたが、もし書いたらそういうものになっただろう、とは容易に想像できるからです。
そういうわけですから、今の自分から見ると、青年の頃は慢性的に軽い躁鬱状態だったような気もします。ただ、学生で独り暮らしをしてる間は、当人は苦しいんですが、社会的には大した問題にはならなかった。しかし、大人になると日々の仕事や家庭生活に支障が出てきますから、事態が深刻になる。クリニカルな対応を必要とするようになるわけです。そういう意味で深刻な鬱状態が二、三年続いて会社を辞めてしまったこともあるし、一度などは一年以上も生きる屍と化してしまったこともある。
そこまでいかなくても、外国暮らしなんかをすると、マジョリティがマイノリティになったりします。さすがに露骨な差別に出会ったことは数えるほどしかありませんが、ははあ、マイクロ・アグレッションというのはこういうことだったんだな、と実感させられる目には少なからず遭う。幸い、ぼくなんかはよき人々にも囲まれていたので、そう大事には至りませんでしたが、場合によっては、メンタルが崩壊せずとも、おおらかに構えてる余裕を失ってしまうことも想像の範囲内です。
ですから、ぼくみたいな人間は、かえって弱い自分のメンタルを守ろうとする機制が強い方ではないかと思います。幾重にも防御壁を建てて、外からのストレスをフィルターするようにしたわけであります。とくに感情というものは感染しますから、自分にネガティヴな感情をもたらすものは無意識のうちにも避けようとする。とくに怒りとか悲しみとかですが、自分は仲間に入れてもらえない強い喜びなんかも羨みや妬みを惹起しますから、無意識のうちにフィルターする。ある種の「鈍感さ」を発達させているわけです。感じないんではなくて、感じたことにあまり流されないように工夫してる。
そういう意味では、メンタルの強さ自体は他の人と大差がない、違うのはその防御壁の建て方ではないかと思うわけですが、それもメンタルの強度のうちだと言われれば、そうかもしれない。
ただ、自分自身ではわからないのでありますが、この強さのかなりの部分は、個人の属性ではなくて、マジョリティの一員であるという社会的位置に帰せられるものではないかと思います。マジョリティであるがゆえに、社会的にも防護されてる部分大きい。怒ったり悲しんだりすることがあまり多くない(あくまでもマイノリティとの比較上の話に限られますが)。大した防護壁がなくても、自らの価値が否定されているように感じさせられることが、マイノリティほど多くない。だから呑気に鼻歌なんか歌って生きてられる。もしマイノリティが日々経験してるような否定圧力にさらされたら、やっぱりメンタルが擦り切れるはずだ。
そういうものがマジョリティの成員に対して投げかけられる批判の真意であって、必ずしも「おまえはメンタルが強いから怪しからん」というものではない。そういうふうに考えることもできるんではないでしょうか。そうでないと、マジョリティにはたまたまメンタルの強い奴が多い、という不思議な現象を説明しないとならなくなります。
そうすると、マジョリティが批判されているのは、「おまえらメンタル強すぎ」ということではない。じゃあ、オレもちょっとメンタルを病んでみようかな、などというのは的外れの対応でありまして、やっぱりメンタルは健康な方がよろしい。
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