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食わせるだけの教育

弟子を育てているスシ職人がいる。まずはスシが何であるか知ってもらうために、自分の握ったスシをたらふく食わせている。そうして何年もスシを食わせた挙句、ある日弟子にこう言う。

「さあ、これでスシがどういうものが分かっただろう。じゃあ、今日からは自分で作ってみろ」

こんなことを言われた弟子たちはびっくりするにちがいない。それだけじゃなくて、これだけスシを食わされても握れない自分に非があるような気がして、自己嫌悪に陥るかもしれない。

自分が創作した笑い話であるが、実はあまり笑えん話でもある。というのも自分は今の教育というのがこんな風になってるんじゃないかと懸念するところがある。大学の教官たちが「学生の質が落ちた」と嘆く。あるいは「学校は即戦力になる人材を育ててない」と企業の人事課が文句を言う。そういうとき、彼らはこのスシ職人みたいなことを言ってるんじゃないかと思うのである。

説明できないのに知ってること

このスシ職人が忘れていることは、マイケル・オークショットやマイケル・ポランニーといった人たちが実践知とか暗黙知と呼ぶところのものである。人々は自分で言語化できる以上のことを知っている。例えば、長嶋茂雄や具志堅用高といった人たちの解説はさっぱり要領を得んが、選手としてものすごいことができる。それは身体によって暗黙のうちに体得された知によって可能なのである。

自分のやっていることを言語化できないからきっと弟子たちは苦労する。だから指導者としても、あまりいい選手を育てられないかもしれない。彼らといっしょに長い時間を過ごし、その手本を真似ていった者にしか、暗黙知、実践知は学べない。明示されないから、それは試験によっては直接測りにくい知である。それでも彼らの持つ知の重要性は少しも減じないのである。

自分は大学で講義をしていたが、これも実践知を要する。多くの専門知を有する学者が必ずしもよい教師であるとは限らない。だから、最初に教えるときはどのように教えればよいのかとまどう。曲がりなりにもそれができたのは、助手として教授といっしょに時を過ごし、彼らの教えるところを間近で見ていたからである。そのうちに自分の先生の教え方にも不満になって、自分でいろいろと工夫するようになるのだが、最初は言葉遣いまで猿真似である。

でも、先生から盗んだ教授法を口で説明しろといっても、説明できない。それを明示的に言語化しても、必ず何かが零れ落ちる。だから後進を育てるときにも、マニュアルみたいなものを作ってやればよいとは思わない。やはり自分の講義の準備を見せて、そして教えるところに居合わさせて、実体験してもらうしかない。そうやって世代から世代へと受け継がれるものを、ぼくらは「伝統」と呼ぶ。だから、オークショットは実践知・暗黙知を伝統知とも呼ぶ。

同じことは、ほとんどすべての技芸に言える。いくらイチローや野村監督の書いたものを読んで、そこに書かれていることを100%理解したとしても、イチローや野村監督になれないどころか、野球選手にも監督にもなれない。いくら先生たちが書いたものを読んで理解しても、彼らのようにはならない。当然といえば当然のことである。

暗黙知・実践知の重要性はスポーツや教授法に限らない。楽器演奏でも美術でもそうである。それだけじゃない。偉人に限らず普通の人々も自分では説明できないのに、ものすごいことをできる。ポランニーが例に挙げたのは人相見である。ぼくらは何百人、何千人の中から自分の知っている人の顔を見分ける。また、人の顔を見て、その人が何を感じているのかを読み取る。いや、顔が見えないネットでのやり取りでさえ、嘘を言ってる奴はだいたい見破ることができる。どうして分かるんだと聞いたところで、納得のいく説明はできない。何となくそうなんだとしか言えない。しかし、それが偶然に任せるより的を得ているかぎり、知と呼べる。

スシ職人は、弟子たちにスシを食わせるだけじゃなくて、自分がスシを作る過程を実見させて、少しずつこの言葉にならない知を伝達しなければならなかった。それをしないでスシという最終生産物がどういうものであるかわかれば、それを作れるようになるだろうと踏んだのが間違いであった。いわば、理論的理解によって実践がスキップできる考えたのである。

教育の職人たちの誤解

こんなバカな職人もいないと思うんだが、教育政策を考えている人々や教育に携わる人々はちょっとこの職人に似ているところがある。なんとなれば、いろいろな学者が発見した知を要領よく調理して食わせれば、その学者みたいことができるようになると考えている。しかも、それをやると実社会ですぐに役立つはずであると考えるのである。

例えば、小中高でしっかり勉強していれば、大学に入って専門書を読んで理解し、またそれについてレポートを書くこともできるはずであり、それができないのはしっかり勉強してないからだ、と大学の教官たちは考えるかもしれない。会社の先輩方は、学校がしっかり教育しないから、こちらの期待を忖度できず、また客の応対や電話の受け答えがまともにできない若者が増えてると考えているかもしれない。

自分はそうは考えない。これだけの時間を勉強に費やしている若者が勉強してないわけがない。むしろ、昔の人よりも知識の量では勝るかもしれない。ただその内容が偏っている。今の子どもたちが学校や塾でやってるのは学問じゃなく、学問の成果を知識として頭に貯えることである。なぜ、どうやってそんな知が作られたのかなんてことは一向に教えられない。身につける実践知、暗黙知といえば受験術だけであり、試験にはめっぽう強い子がたくさんいる。だが、受験の実践知が試験場の外で何の役に立つか。

「使える」人材の育て方

じゃあ、どうすればそうした「すぐに役立つ」人材が育つか。理屈上は話は簡単である。スシを食わせるばかりではスシ通にはなるかもしれんが職人にはなれない。達人をそばで見させてその技を盗ませるしかない。教える方がそれをやって見せるしかない。同じように、調査研究ができる学生に大学に来てほしければ、小中高の段階で調査研究の実践知・暗黙知を伝える達人がそれを子どもたちの前で実践して見せなければならない。

企業の「即戦力」も同じである。実際、企業の求める「戦力」もまた明示的に言語化されていない。一体、企業が求めているのは何か、言ってる本人も含めて誰も知らんのである。否、きっと知ってる人は知っているのだが、それは暗黙知であり、言葉にしきれないものなのである。だから、これを覚えさえるにはやはり達人、つまり企業の「戦力」である人がやって見せるしかない。

子どもは吸収が早い。外国語でも接しているだけで大人より早く覚えてしまう。そして、習得の手順が大人とは逆である。彼らが覚える言語とは、大人たちが考える言語とはちがう。大人たちはまず「基礎」として文法を覚え、語彙を増やし、といった手順を踏む。そして、それを「応用」するのが会話だと思っている。つまり、まず言語とは「何か」を知ってから、それを「どのように」使うかを学ぶという順番になってる。言語は文法や単語の数だと思っている。

子どもが覚える言語はそうではない。言語が何かという問いは言語をどう使うかという問いと切り離されていない。言語の使用というのは知っている基礎知識の応用ではない。むしろ、子どもは「応用」の中から文法や単語を覚えていく。身の回りの達人たちを観察し、真似をして、文字通り体得していくのである。大人でもそういうところがあって、自分などは外国語をしゃべるときは身振り手振りまで変わるので、いつもかみさんから笑われてた。で、やめようと思うのだがやめられない。いつの間にかその言葉を使う外国人の真似をしてる。

もともと発話行為というのは身体による行為、つまり実践なのである。頭だけではなく体全体で覚えるのである。日本人だって日本語はそうやって覚えた。そうして、学校で習った文法などはすっかり忘れても、日本語を使う能力にはまったく支障がない。

大人になると子どもほど適応能力がないから、語学もまず「基礎」からやってしまう。そうして基礎の学習自体が目的化して、一向に応用にまでたどりつかない。そしてその成果を子どもに食わせようとする。それで、実際にいざ応用しようとしても余計な知識が邪魔になって舌が滑らかでない人ばかりが増えるんである。うまいスシを食いすぎて、自分で握る自信なくなったような形である。

大学という場所に何を期待するか

だから、大学に優秀な学生に来てほしいのだったら、小中高の教育のあり方を変えないとならない。それにはおそらく大学の受験のあり方を変えないとならない。そして、大学における師弟関係をもう少し真剣に考えないとならない。もとより大学というのは、いろいろな専門知だけじゃなくて、学問の実践知・暗黙知を伝達する場である。講義だけやって、あとはおざなりの論文を書かせて卒業させりゃいいって考えている大学や先生が増えすぎとる。

そうして企業も大卒優先の採用の仕方を変えないとならない。大学がそういう場所であるなら、企業が期待する人材を大学に求めるのが間違っている。「即戦力」が欲しいのならば、大学になんか期待しないで、自分でどんな人材を欲するのか考えて、金を出し合って学校を作って、自分で講師を派遣して、達人の技を伝授すればいい。頭でっかちになった大卒なんて相手にしないで中卒、高卒を訓練すれば、すぐに「即戦力」ができあがる。

話がそう簡単にならないのは、暗黙知・実践知の伝達は大量生産できない。きっと大人数相手の学校だけでは、実践知・暗黙知は伝わり切らない。学校外での教育機会について考えないと、能力の偏った人間が増える。信じない人に証拠を見せる必要があるなら、次世代の教育を学校に任せすぎた分業の成果であるわれら自身をふり返ってみるがいい。あとは推して知るべしである。

今のままじゃ、スシを食わされすぎて、握ってみろと言われたって、「いや、もうスシは見たくもありません。なんであんなものを作りたがる人がいるのか、ぼくにはさっぱりわかりません」っていう者ばかりが増えていく。

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