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父の思い出

父は哲学教授だったが、元は航空学科であったから機械好きでもあった。クルマも好きでなぜか絶対マツダしか買わない。貧乏講師時代にも、本の印税が入ったからって車買っちゃう。運転免許もまだ持ってない。そしたら学生が次から次へとやって来て借りていく。気が気じゃなくなって急いで免許取ったらしい。先生と学生の仲がこんなだった時代もある。

父の勤めたのは学生運動がもっとも激しかった大学の一つ。そこで学生担当やらされた。学長だか総長が学生に囲まれてガソリンを撒かれてるって夜中に電話がかかって呼び出されたりした。自分の知ってる父ははじめから白髪だったんだが、このとき髪が一気に白くなったらしい。その時の学生運動のリーダーの一人はのちに大学院に進んで、自分が物心ついたころには父の教え子になってた。

父が若い人に人望のあったことはずっと後になって知ったのであって、自分は父にかわいがられた記憶などない。いつも書斎にこもっていて、子どもが悪さをすると降りてきてひっぱたかれる。それだけの存在だった。自分の権威嫌いもどうやらこの辺に根がある。不器用な人で子へ愛情を伝える術を知らなかった。

父は父で子に自由に生きさせたいと願っていたらしく、今になるとその教育方針のありがたみがわかる。だが、他の家庭と比較する機会もない子どもにそんなことがわかるわけない。早く家を出たくて仕方なかった。で、大学に入るとほとんど家に寄り付かなかった。一人前の人間として腹を割って話す前に、父はあの世に旅立ってしまった。

唯一覚えているのは、自分が受験勉強をしてるときボロボロに使い古した英語の大辞典をくれたことである。自分が受験の際に使ったものだそうだから戦前のものである。父もそれを誰かから譲り受けた。古すぎて間違いもたくさんあったのだろうが、高校生用の辞書にはない単語がたくさんあったから重宝した。父が自分が受験勉強をしていることを気にかけているのは意外であったから、今でも覚えてる。

父とは口もろくにきいたこともないのだが、自分が仕事を辞めて大学院に入りなおしたとき「やっぱり血は争えんな」と父は笑っていた。まんざらでもなさそうな感じだった。父もまた30代で家族の反対をおして大学院に入りなおした。自分は父を意識したわけじゃないが、知らず知らずのうちに子は親の資質を受けついでおるらしい。

そういえば、南米のある国で働いるとき父が訪ねてきたことがあって、そこの国立大学で講演を頼まれたことがあった。その大学には大きなチェ・ゲバラの顔が描かれてる壁がある。左翼ゲリラの細胞も入ってるという噂もあった。案内しながらそんな話をしたら、父が「若い連中は正義を求めるからな」と言ったのが非常に意外だった。

親は子を知らんが、子も親のことをほとんど知らない。そうやって一生をともに過ごしてしまうから不思議である。

もう一つ思い出した。父は戦争末期には理学部学生として秘密兵器開発に駆り出された。自動追尾装置付きの魚雷らしいが、結局終戦には間に合わなかった。静岡かどこかで開発に携わっているときに米軍戦闘機の機銃掃射を受けて命拾いした経験が、のちに哲学をやるきっかけになったらしい。やはり命運をともにしただけあって、そのとき一緒だった仲間とは生涯を通じて付き合いがあった。マルケの会というんだが、マル秘の「マル」に、ケは化学の「化」らしい。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。