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読書家たちの反読書主義

割引あり

なにかの専門家としては自分はもう終わった人間であるが、それゆえにか、読書家としては脂がのり切っているらしく、読めば読むほど得るものが多いし、だからいろいろ読むのが楽しい(他にやることがないからでもあるけどな)。

昔から平均よりは読んでいた方だろうけど、勉強や仕事のためにいやいや読まされてるようなところもあった。それが、いまではいくらでも読める。それなのに、もう眼が弱ってきて、思うように読めないのが憾みである。「みんな、読書は五十前にしとけよ」と言いたいところだけど、若いときはいくら読んでもほとんど頭に残らなかったから、目が弱るくらい生きてからでないと読めるようにならないものも多いのかもしれない。どうも神さまは、人間を読書する動物としてはお造りにならなかった。

もしこんなに読書をしなかったなら、自分がどんな人間になっただろうか、もう想像さえできない。文字にどっぷり浸かって生きてる。そういう人間であるのに、どういうわけか自分は反読書主義(と自分が呼ぶもの)に魅かれるところがある。読書は無益、あるいは有害でさえある。そういう考えである。奇妙なのは、そういうことを口にする人は、書物のありがたみを知らなさそうなひとばかりでない。他人以上に書物漬けのような者のなかに、読書家たちの尊敬を集めるような偉人たち、まさにぼくらを書物漬けにする張本人たちのなかにも、そういう人がけっこういるのである。

矛盾しているんだが、自分のなかにもそういう考えに共感するところがなくもない。自分の悪口を言われてるようなものだけど、そう言われるとそうかも、と首肯してしまうんである。だから、反読書主義は、本を読まない者のいいがかりとはかぎらない。人一倍たくさん読んだ者にしか自覚されない読書の限界みたいなものがあって、読書家の自己批判、あるいは罪滅ぼしといった一側面がありそうなんである。

そういうわけで、数年前から、読書批判のことばを見つけたときには、書き抜いて貯めておいた。まだ反読書主義の哲学とか思想史のようなものを取り出せるほど集まってないんだが、このペースだといつ集まるかもわからない。それなら読書家のみなさんと、わいわいいっしょに考えていくほうが、きっと楽しくもある。そう考えて、こんなものを物してみた。まあ、そんなことは起きないだろうが、とりあえず集まった素材を生のまま陳列して、いったん区切りをつけようと思う。

以下、名前だけ見ると、読書家であればどこかで聞いたことのあるであろう錚々たる面々である。注意しておくが、体系的に収集したわけではないから、代表的なものというわけでもなく、順も不同である。孫引きが多いが、原典まで遡って確認したわけではない。調べたい人がいるといかんから、わずらわしくならない程度に出典を明記しておく。


ホッブズ

だが、書物の権威だけを信用して、盲人に盲目的にしたがう人びとは、剣術教師の虚偽の法則を信用して、かれを殺したり辱めたりする敵に、生意気にもたちむかう人に似ている。

『リヴァイアサン』岩波文庫、第5章94頁

剣術に長けるためには、まず経験を積まないとならない。自分で剣をもって闘ってみないと剣士になれない。そのうえで、剣の有効な使い方を理論的に学べればさらによろしい。ところが、多くの者は、ただエライ先生のご高説さえ拝聴すれば、そのまま剣士になれると思ってる。他人の威を借りてるだけなのに、もう自分が強くなったつもりで、無暗にひとに切りかかる。それで簡単に返り討ちにあう。

剣術にたとえているが、実は権威ある古典や注釈書から知を得てる学者階級への批判である。ホッブズは近代政治学の祖の一人に数えられるんだが、広く読書していて、古典教養も深い。トゥキュディデスの『歴史』の翻訳までやった人だ。だけども、ガリレオなどの近代科学にも接していて、真理はもうどこかに書かれていて、本から学ぶものと考えてるような「スコラ派」学者たちには批判的だった。「スコラ派」というラベルで呼ばれてるけど、批判されてるのはカトリック神学者たちばかりではない。

そのホッブズが影響を受けたと思われる哲学者の一人がデカルト。最後は仲たがいしたけど、親交もあったらしい。

デカルト

ここ〔自然そのもの〕に私の書斎がある

ディルタイ『精神科学における歴史的世界の構成の続編の構想』に引用。全集4、307頁

デカルトがある貴族の訪問を受け、書斎を見せてほしいと請われたときのこと。彼はこの貴族を解剖用の子牛のところに連れていって、こう言ったんである。

つまり、「どんな本を読めば、デカルト先生のようになれるんですか」という問いに対して、「オレは本からなど学んでない。自然、物ごと自体を観察して、自分の理性を働かせて、そこから真理を引き出してる」という答えである。

これに類する考えは、ルネサンス期にかけて広く共有されていたようであって、あちこちで見かける。近代科学の祖の一人、ガリレオ・ガリレイは、より一般化して次のように言ってる。

ガリレイ

真の哲学書は、われわれのまえにつねに開いておかれている自然の書である。それはアルファベットとは異なった文字で書かれている。つまりその文字とは、三角形、正方形、円、球、円錐、ピラミッド型などの幾何学的な図形なのである

エルンスト・ブロッホ『希望の原理』第6巻、第5部第54章に引用

かび臭い図書館なんかにこもって読書してないで、大自然というおおきな書物を読め。自然を一種の書物として「読む」という比喩(?)表現はゲーテなんかにも見られるけど、詩的なものとはかぎらないらしい。もとは科学者もこれを使っていた。

哲学の古典名著に対する科学者たちの不遜な態度に思われるんだけど、自然は幾何学的な秩序であるという見方は、プラトンの宇宙観にも通ずるところがある。考えてみると、哲学の祖たち(ソクラテスとかプラトンとかアリストテレス)の生きた時代は、まだ読むべき古典などというものがない。知識の多くは、人から聞いたのでなければ、自然観察にもとづいて、自分で考えないとならなかった。ソクラテスなんかは書かれたものをなに一つ残してないけど、書く必要をまったく感じなかったらしい。

「哲学をする」ために書物は必須かもしれないけど、読書しなくても「哲学する」ことはできたらしい。いや、むしろ書物がなかったから、「哲学する」ことができたのかもしれない。

ガリレオと同時代のイタリア人、カンパネッラのユートピア小説『太陽の都』にも、次のような台詞がある。

カンパネッラ

あなたがたの考える学識者というのは、語学に堪能なひとや、アリストテレスその他の有名学者の論理学に通じた人のことですが、これはただ丸暗記が必要なだけです。そのため人は活力に欠けてしまいます。というのも、現実の事物に眼をむけないで書物ばかり見ているので、魂は書中の死んだ事物のうちにあって生気をうしなってしまうのです。そして、神が万物を統べたもうその理法をも知らず、自然の法則や諸国民の習俗にも暗くなります。

『太陽の都』(岩波文庫)、第三章、30頁

なんと、読書は精神を広げるどころか、魂を弱らせ殺してしまう。知見を広げるどころか、かえって世の中を知らなくなる。そうなると、本好き(「現実の事物に眼をむけないで書物ばかり見ている」人たち)というのは、酒好きやタバコ好きと大差ない趣味である。

ちなみに、カンパネッラは聖職者でもあって、そういう人たちをよく知ってる。彼自身もまた書物に浸かって成長した一人。であるから、門外漢の冷笑ではない。身内の批判である。

夭折の才人ピコ・デラ・ミランドラと自分のアプローチを比較して、次のようにも言ってる。

私の哲学のしかたはピーコのそれとはちがいます。――私が神の書を探究し読み解くことを学んでからは、有史以来こんにちまでに書かれたすべての書物からよりも、(すばらしい世界の解剖はさておき)一匹の蟻か一本の草の解剖から、いっそう多くを学ぶのです。私は神の書を手本として、人間の手になる書物を訂正します。人間の書物は、宇宙という原典に書かれてあるとおりにではなく、気まぐれに誤り写されたものなのです。……まことにピーコは高貴な天分に恵まれ学識豊かでしたが、自然のうちによりも他人のことばにもとづいて哲学し、自然からはほとんどなにも学んでいません

同上、アントニオ・クレエンゴ宛の手紙、訳者解説の164-165頁に引用

自然という書物の著者は神であって、自然現象が神のことばである。書物ではなく自然を読めば、神の意図がよりよくわかる。なんで人の書いた本なんか読んでるだよ。そう言ってる。

もっとえげつない非難もある。

ところが、聖職者である役人たち、また学問にたずさわる教師たちは、なん日ものあいだ多くの条件を守らないと子づくりの営みをしません。と言いますのも、かれらは知的活動に専念しているために動物的精力が弱く、また、いつも何か考えごとをしているので頭脳の力をそそぎいれて伝えることがなく、そのため劣等な種族をつくることになるからです。それで、とくに配慮して、この人たちは活発で丈夫な美しい女たちと交わらせます。

同上、41頁

草食性男子は、どうやらルネサンスの頃にも修道院や大学あたりにたくさんいたらしい。読んだり暗記したりごちゃごちゃ考えたりするのに精魂使い果たして、子どもに与えるだけの精力が残らない。救いなのは、この時代にはまだ女たちが男たちのように読書に親しんでないから、動物的精力の不足を補ってくれる女たちがたくさんいた。しかるに、現代では男も女もみんな本を読むようになった。ひょっとすると、読書家たちは、子どもが生まれなくなった責任(あるいは劣等な人間を殖やしたこと?)の一端を担ってるかもしれん。こりゃ困ったことになったぞ。

レッシング

ちょっと時代を下って、18世紀のドイツ啓蒙主義者のひとりレッシング。彼の戯曲のなかで、お姫様シッタと賢者ナータンの娘レヒャのあいだに次のようなやりとりが交わされる。

レヒャ シッタ様も、本はあまり、あるいは全然お読みになりませんでしたのでしょう。
シッタ なぜそんなことを言うの? ――本をたくさん読んでいたとしても、それを鼻にかけるつもりはないけれど、でも、なぜそんなことを言うの? わけを話してちょうだい! 遠慮しないで、わけを聞かせてよ!
レヒャ だって、あなたさまは、とても率直で、わざとらしさがなく、自由奔放でいらっしゃいますもの・・・・・・
シッタ で?
レヒャ 本を読み過ぎた人にはそういうところが残っていることは少ないと父が申します。

『賢者ナータン』、『レッシング名作集』白水社

ということは、本を読みすぎると、「率直で、わざとらしさがなく、自由奔放」ではいられなくなる。まわりくどくて、芝居がかってて、ぎこちない人間になる。やべえ。もう手遅れだ。

ナータンはユダヤの賢人であるから、哲学者・宗教学者シュライエルマッハーの『宗教論』からも引いてみよう。

シュライエルマッハー

 経典などは、どれも宗教の霊廟にすぎない。かつてはそこに偉大な精神があったかもしれないが、今はそんなものもないただの記念碑にすぎない。もし偉大な精神が、まだ生きて作用しているなら、どうしてそれの弱々しい模写にすぎない死んだ文字に、それほど大きな価値をおくことがあろう。経典を信ずる人が宗教を持っているのではない。経典などなんら必要とせず、自分でそれをつくることができるような人が、宗教を持っているのだ。

『宗教論』高橋英夫訳、筑摩書房、1991年。第二講、97頁

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。