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神と悪魔がまだ一つのものであったころの話

節分にやってくるもの

年がら年中祭りをしてまで物を売らないとやっていけない世の中では、正月が終わると次は節分であります。自分にとっては節分は豆まきでありましたが、鬼の面と煎り豆くらいじゃ商いが薄い。最近は恵方巻という寿司を買ってきていただくことになってるようです。関東育ちの自分などには目新しいんですが、もとは大阪付近の風習らしいです。

だが、恵方巻というからには、何かがどこからかやってくるらしい(恵方というのは福がやってくる方角という意味)。だから、やっぱり正月様や歳神様みたいな福の神がどこからかやってくる。鬼を家から追い出すのとは、方向も価値判断も真逆です。

だから、正月同様に、もとはこれもまた福の神でもあり鬼でもある死者の霊魂をお迎えする、厳粛な祭であったかと想像できます。福を呼ぶ方は恵方巻、不浄な穢れを除去する方は「おにはーそと」の豆まきに分離してしまっていますが、もとは死者の魂にどちらの属性も含まれたんではないかと思います。

つまり、死者の霊魂は福も災厄ももたらす力を有してる。「力」というものはよいことにも悪いことにも使えますから、もとよりそういうものなんですね。であるから、福と凶事は同じ力から生じると考えられた時代においては、福だけ迎え入れて魔を除去すればいいということにならなかったと考えられます。同じ力をいかに統御するかの問題でありました。

そういう危険を冒してまで死者の霊を呼び込むのは、どうやらそうしないと宇宙が若返らないという信仰と関係していました。日常生活においては「穢れ(ケガレ)」がたまっていく。つまり宇宙の生命力が弱っていく。それが人間の営みにも影響して、人の生きる力も弱まる。だから、いったん弱った宇宙を殺して生れ変ってもらう。「ケガレ」という言葉は使いませんでしたが、正月には、そういうお話をいたしました。

神聖にしてケガレたもの

「ケガレ」という言葉の意味については、学者の間でも諸説紛々なんですが、自分が思うに、どうも少なくとも二種類の異なる起源のものが混ぜ合わされたようなところがあります。

一方では、霊魂のもつ強力な力が「ケガレ」と目されています。たとえば、月経血や胞衣など生殖にかかわるようなものは、けがれていると見なされますが、同時に神聖な呪力を秘めているという両義的な意味を持たされることが多い。今日では「穢れ」というと「汚い」という意味がもっぱらですが、もとは「聖なるもの」であり、「取扱いに非常な注意を要する危険物」だったものが、害悪をもたらす一面だけが分離してそう呼ばれるようになったんではないかと思います。毒物みたいに、うまく使えば薬にもなりますが、素人が下手に扱うと死をもたらしかねない危ないものだったんですね。

もう一つの「ケガレ」の意味はこれとは真逆で、日常につきものの労働とか食事・排泄とか性行為などに伴って生じる。「ケガレ」を「ケ(生命力)が枯れる」という意味に解すれば、こちらの方が「ケガレ」の元の意味かと思います。つまり生きようとするかぎりは何ものも避けられない頽廃、腐敗の類です。老いる、歳をとる、病むというのはこの作用の一つの結果でありますが、物が腐ったりするのもまた同じ枠で捉えられる。そう想像できます。ひともまた歳をとって死ぬ。死ねば腐ってくる。いな、まだ生きてるうちから少しずつあちこちが解体していきますから、そう的外れな類推ではないわけです。

この二つの相矛盾するような意味が、「ケガレ」という言葉には入り混じっているようです。ひとつは、あの世からやってくる強力な呪力、もう一方はこの世のエントロピー増大のようなものです。でありますから、これに対応して、あの世からやってくる死者の価値づけも両義的になります。一方では恐るべき脅威なんでありますが、他方では死にゆくこの世を蘇らせる再生力をもたらすありがたいものなわけです。

それで思い出されるのがハロウィーンの祭です。魔物に扮した子どもたちが家々を訪れて、「トリック・オア・トリート」と脅迫めいたセリフでもって菓子をせびる。だけども、脅迫される方もまたこの小さな「まれびと」たちがやって来るのを楽しみにして、菓子を準備して待っている。そして魔物たちからことほいでもらって喜んでいる。日本にもかつては似たような風習が各地で行われていましたが、元をたどれば、これも死者の霊魂の両義性を表わしたものではなかったかと思います。

悪の「形」

ところで、この呪力が目に見えず、話しかけることも触れることもできないものであれば、働きかけようがありません。統御するためには、それに「形」を与えてひとの感覚で捉えられるようにしなければなりません。そこで自然に、シンボルや偶像という形態が与えられるようになる。

そうやって形態が分化していくと、同じ「力」であったものが神と鬼悪魔のような表象に分離していく。そう考えられるわけですが、この分離が完成するにはかなりの時間がかかったようで、この中間形態のようなものがたくさんあるんですね。多くの神話においてカミというのは恭敬の対象でもありますが、同時に恐るべき災厄をもたらす。善いのか悪いのかよくわからん存在なんですね。ただ「力」が強いから、丁重に扱わないとならない。人間に真面目、厳粛というものが要求されたのは、こういう意味での「聖なるもの」に対するときだったんですね。

このカミの怖ろしい半面、いわば「悪」の側面が純粋に抽出されていくと、悪魔王サタンのようなものができてくるんですが、やはりその中間形態があります。いろいろ悪さをするんですが憎めない。それどころか、神に対抗して人間にいろいろな恩恵をもたらしてくれる。そういうトリックスター(いたずら者)=文化英雄的な存在です。

プロメテウスやスサノオのような神(あるいは半神半人)から、アフリカの民話に出てくる悪賢いウサギまで、いろいろな形態がありますが、中間形態のカミの曖昧さに対応して、善悪がはっきりしません。神に反旗を翻した堕天使が悪魔になったというキリスト教の神話も、善なる神から悪が生まれた(というよりも、悪が分離することによって神も純粋に善になった)という理解を示すものと解釈できる。

この「悪」はまた、ヨーロッパに演劇に登場する道化にもなったようなんです。コメディア・デラルテと呼ばれるイタリアの喜劇に登場するアルレッキーノと呼ばれる道化が有名なんですが、道化というのはかなり普遍性のある原理でして、あらゆる文化に似たようなキャラクターを見出すことができます。

アルレッキーノの場合は、悪魔との関係がほぼ明瞭に跡づけられる。長い話を思い切り短くすると、神官階級が民衆を脅かすために作り上げた純粋な「悪」の表象である悪魔を、民衆がまた自分たちのものにしていったのがアルレッキーノらしいんですね。だから、道化は悪魔的であっても愉快な奴で、トリックスター的なところがあります。ゲーテの『ファウスト』に出てくるメフィストフェレスなどを思い浮かべてください。こんな悪友が一人いた方が人生楽しくていいや、と思わせるような悪魔なんですね。

だからアルレッキーノは悪魔なんですが、あんまり怖くない。むしろ笑える。そうやって怖いものを笑える対象にしてしまえば、地獄の沙汰を怖れる気持ちも和らぐ。人間と悪魔は大地から生まれ大地に帰っていくものとして、親戚みたいになる。天使や神がむしろ人間と縁遠い、冷酷なものに見えてくる。このような文化は宗教的権威にとって破壊的ですから、当然教会は喜ばなかったんですが、教権を抑える目的で王権に保護されたりなどしたので、さすがの教会も民衆から道化を取り上げることができなかったようです。

道化と王権

これはヨーロッパ的な道化の例なんですが、もう少し一般化しますと、道化には贖罪山羊(スケープゴート)的な意味もある。つまり日常生活で発生するところの「ケガレ」を全部背負い込ませて、共同体の境界の外に追放してしまうヨリマシとしての役割です。もとよりあの世から来る霊魂はケガレているんだから、この世のケガレも引き受けてもらってもいいだろう、というちゃっかりした論理なのかどうか判断がつきにくいですが、ケガレたものは死者の国で浄化されてまた生まれ変ってくる、という信仰とは矛盾しないわけです。

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