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発見する力をいかに養うか

「○○力」という言い方は何かと便利で、日本語でもかなり濫用されたものの一つである。「知力」とか「腕力」とか「魅力」などはもう長いこと流通しているが、「コミュニケーション力」「人間力」「顔面(力)」なんていうものまで現れた。どうやら日本語の世界は、簡単には定義もできないし測定もできない怪しげな力が満ちている。

今さらそんな怪しい力を一つ付け加えるのに手を貸すのも気が引けるが、「○○力」というタイトルは人にクリックさせる力があるらしく、自分の文章でも読まれやすい。これを使いたくなる理由がある。だが、なぜ人が「力」に関心を抱くか考えてみると、二つの期待がありそうだ。

一つは、自分にもそんな力があることを確認できるかもという期待である。もう一つは、そんな力がないにしても、その文章を読めばその力を得る術を学べるんじゃないかという期待である。この願望に働きかけるのが「○○力とは」みたいなタイトルである。

そんな期待に応える文章を書くのがプロのライターなのだろうが、自分なんかはこれを裏切る方が得意であるらしくて、読む人ばかりが多くていいねがほとんどもらえない。今回の文章もまた同じ憂き目にあうかと思うのであるが、嘘や気休めに陥らない程度にベストを尽くしてみようと思う。

桜もみじ

自分は毎日何か新しい発見をする人間である。本を読んでいるときのこともあるし、散歩をしているときのこともある。何もしてないときにひょいと頭に浮かぶこともある。

発見の多くはその場かぎりのつまらないことである。もしくは、もう他人が発見したことを遅まきながらに発見するだけである。

たとえば、秋口の話であるが、「桜の紅葉」を発見した。紅葉というと楓とか銀杏だと思っていたのだが、ひょいと見上げると桜の木の葉が赤くなっている。

そもそも自分は桜の花よりも花が散った後の新緑に魅力を感じる人間であったのだが、桜が人の目を楽しませながら散らすのは花ばかりではないのだなとそのときはじめて知った。紅葉した桜の木を毎日のように目の前にしながらも、それを「桜の紅葉」としては認識していなかったのである。

これは自分だけの発見でもあるまいと思って、「桜の紅葉」で検索して見ると、やはりもうこれに気付いて愛でているような人々がたくさんいる。自分の発見もコロンブスの「発見」で、大陸にはもう多くの先住民がいたわけである。

そうは言っても、自分のように経験より言葉を先に覚えてしまった人々にとっては、「桜」は「秋」とか「紅葉」ではなく「春」とか「花」に結びついている。「桜の紅葉」と言ったところで、多くの人は何かの言い間違いだと思うだけだろう。

考えてみると、この広大で多様な世界について、どんなに博識な人であってもごく一部のことしか知らない。文字では知っていても経験したことのないことが山ほどある。だから、発見があるということは不思議でもなんでもない。何度も通った散歩道でさえ新しい発見が尽きない。自分が過去に書いたものを読み直してるときでさえ、発見がある。

であるから、自分には知らないことがまだたくさんあると思っている人が、心を空にして自分の周囲を見渡すだけでいいわけで、わざわざ発見力などというものを想定する必要もない。多くの人が何の発見もないまま一日を終えてしまうのは、これをやってない(たぶんやる余裕がない)だけの話である。

その場かぎりじゃない発見

しかし、自分の経験であると、年を経るにつれて発見というものがどんどんと増えてくる。若いときには見落としていたものがつぎつぎと見出される。一日たりとも発見のない日がない。

量だけではない。発見の質の方も変わっている。珍しいもの、興奮させられるものというのは、たいがい日常からは離れた特殊な経験である。相当に強烈な印象を与えられないと、以前は「発見」として記憶に残らなかった。だから、記憶に残る発見は孤立した印象にとどまることが多かった。

それが、近年は日常のなかで発見されるようなことが多い。しかも、発見がその場かぎりで終わらない。すでに記憶されていて知識となっているようなものに結びつけられて、そのまま自分の一部になるような発見が多い。

たとえば、二、三日前に自分が発見したのは、ゲーテの恋愛観・女性観である。ゲーテが『詩と真実』という自伝のなかで、三番目の恋人であるフリーデリーケについて描写してるところを読んでいて、はっと気づいたのである。自然豊かな田園で自然に育った少女を愛でる自然な心情。この「自然」の三連発に目が留まったのである。

古典詩に親しんでいたゲーテは、田舎娘に古代の女神や神々に愛でられた巫女の姿を重ねた。そうして、自分の恋愛体験を宗教体験に近いものに高める操作を行ったのではないか。恋愛において宗教と詩と自然がつながるんでないか。そういう発見であった。

こんな話をしても、これがどんな意味で発見であるのかよく分からない人が大半であると思うが、今回の話のポイントはまさにそこであるから、わからなくてもよい。自分がこれを有意義な発見と考えたのには、その土台となる以前の発見があったということが言いたいのである。こういう発見である。

おそらく、市井の女というのは人類の歴史においては長いこと恋の対象としては不適当だと思われていた。恋愛を何か崇高なものとして見、また市井の女性にも女神のイメージを重ねるような恋愛観は、どうやら近代の産物である。これをすでに自分は発見していた。そして、この原型はロマン主義文学あたりにあるのじゃないかと見当をつけていた。

この発見を心にとめておいたがために、ゲーテの『詩と真実』を読んだ際の発見があった。それがなければ恐らく何ごともなく読み過ごしたであろう。

「つながり」の発見

発見がその場かぎりのものではないのは、「つながり」のせいである。これがすでに自分の頭のなかにある記憶とつながるから、断片にとどまらずに知識全体のなかに位置を得る。いわばパズルのピースみたいにぴたりとはまる。

そうなると自分が発見したのはゲーテの恋愛観だけではない。それとロマン主義的な恋愛観・女性像、さらに自分が考えていた現代の恋愛観・女性像との「つながり」を見出したのである。否、この「つながり」がないと発見もありえないし、またたとえ発見しても孤立した断片にしかならない。その意味で、発見されたものの本体はゲーテの考えよりも「つながり」の方であるともいえる。

何もしないでぼうっとしてるようなとき、自分が書いたものを見直しているときの発見においては、この点がもっと明瞭である。そうした発見においては、外から新しい情報が入ってくるのではない。すでに頭のなかにある二つ以上のもののあいだに、以前には見えなかった「つながり」を発見するのであって、つながれる対象はすでに発見ずみなのである。

「桜の紅葉」にしても、「桜」と「紅葉」というふたつの概念が別々に頭のなかに存在していたのであるが、これをつなぐ「と」が見えてなかった。よくよく考えて見れば、冬に葉のない木であれば紅葉して葉を落としているわけだから、桜も紅葉すると考えて当然であったのに、下手に「桜」と「春」「花」の「つながり」の知識が頭にあったがために、かえってそれを目の前にしながら発見できなかったのである。

どうすれば発見が多くなる?

というわけで、何が人をして多くの発見をなさしめるのか、という問題である。

まず第一に、ある程度の知識のストックがないと発見も少ないから、知識の量を増やすように心がけることである。何か珍しいもの、目を引くものの発見だけでは、つながりのない孤立した印象で終わって、発見として残らない。自分がゲーテを読んで何か発見したのも、それ以前の発見を頭に留めて大事にしておいたからだ。

だから、発見力を高めようと思うなら、まずは読書でも観察でもどんどんやって知識を吸収していったほうがよい。子どもが好奇心旺盛なのも、まずはいろいろなものを吸収しようとするからであろうと思う。余計な選り好みは時間の無駄である。

しかし、ある程度知識が貯まってくると、今度は慢心が生じる。もう知るべきことは知ったと思いこんで、新しい発見に心を閉ざしてしまう。桜を花にばかり結びつける知識が桜の紅葉を見えなくしたように、中途半端な知が発見の邪魔をする。自分にも覚えがあるけども、二十歳前後にそんな風に考え始めて、放っておくとぜんぜん新しいことに気づかない大人になってる。

であるから、第二に、発見力を高めるには、自分はまだこの世界のほんの一部しか知らないということを、何度でも自分に言い聞かせておくことである。「無知の知」とまでは行かなくとも、まだまだ知れることがたくさんあって、それをできるだけ発見してやろうという子どもっぽい知的好奇心を維持することである。まだまだ自分が知らないけども知る価値のあるものがあっちにもこっちにも転がっている、と思うだけの謙虚さを身につけることである。

(追記:「ひらめき」という言葉がある。発見は往々にしてひらめきとしてやってくる。しかし、ハンス=ゲオルグ・ガダマーという哲学者によると、ひらめきは無から生じるわけではない。

しかしながら、同時に、ひらめきはまったく準備なしに起きるのではない、ということも事実である。ひらめきは(それがそこから生じる)未決性の領域への方向を前提としている。だが、これは言い換えれば、ひらめきは問いを必要としている、ということである。ひらめきの本質は、おそらくなぞなぞの解決のように解決方法が思い浮かぶというよりは、問いが思い浮かんで、未解決の領域に入り込み答えが可能になる、というところにある。(『真理と方法』第Ⅱ巻第Ⅱ章第3節)

この引用だと、問いがあってひらめきがあるのか、問い自体が最初にひらめくのかよくわからないが、いずれにせよ、問いをもっているということがひらめきの前提になる。そして、問うために、自分の無知を認識しなければならない。2021年9月。)

しかし、謙虚であるだけではいけない。第三に、自分が発見したことを軽視しておざなりにせずに、大切に世話をし育ててゆくこと。「自分の発見なんてきっと大したことないや」と卑下した途端に、新しい発見に心を閉ざしてしまう。そうではなく、偉い人の書いた本で見た記憶がなくとも、いったん大事だと思った発見は新しい発見があるまで手放さないことである。

ちなみに、自分は文学者ではないから、ゲーテと現代の恋愛観・女性観とのつながり発見をしたのが自分が最初であるかまだわからないし、まだ自分の考えが正しいものであるか判断できない。つまり、それが他人にとっても「発見」であるのかどうかはわからない。だが、そんな頼りない発見だからといって顧みずに捨てておいてはいけない。何かありそうだと思ったら、頭の片隅に大切にしまっておくことが、新しい発見につながる。確実な知が得られるまで待っていたら、一生かかっても知れることは少ない。

であるから、第四に、すでに自分の記憶の一部となった過去の発見についても、新しい発見に照らしてつねにアップデートしてゆくこと。たいがいの場合は、最初の発見は不十分であることがあとで判明する。ひょっとすると、後の発見によって最初の発見が否定されてしまうかもしれない。しかし、それも一つ発見である。喜んで潔く間違いを訂正すればいい。最初の発見にこだわりすぎると、結局新しいものへ心を閉ざしてしまうことになる。下手に人前で知ったふりしてしまうと自分を永遠に誤謬に縛り付けてしまうから、知ったかぶりはなるべく慎んだ方がいい。

これも『詩と真実』のなかからの引用だが、ゲーテがこんなことを言ってヴォルテールを批判している。ノアの洪水が虚構であることを証明したいヴォルテールは、勢い余って貝の化石の存在さえ否定する。しかし、ゲーテは貝の化石に埋められた山頂を、自分の目で見ている。この経験を否定せずに、ゲーテは「男らしく」(性差別用語で申し訳ないのであるが、以前の書いた記事における意味でこう形容したくなる)こう言い切る。

それがノアの洪水の前であったかあいだであったかは私の問うところではなかった。要するに、ラインの谷間は巨大な湖、見晴らすこともできない入り江であったのだ。私はこの意見を譲る気はまったくなかった。むしろ私は陸地と山岳に関する知識をさらに深めようと思った。そこからなにが生じようと私には関わりのないことであった。 (『詩と真実』第三部、岩波文庫、山崎章甫訳)

ヴォルテールは宗教の権威を否定するために、海から遠く離れたところに貝の化石があるという経験的な事実さえ受け入れることを拒んだ。後知恵で見れば、自分が桜が紅葉しているという眼前の事実を無視したように、彼は自分が真実であると思ったこと(聖書に書かれていることは史実ではない)のために、みずから新しい「発見」を無視しようとした。

これに対してゲーテは、自分の信じる宗教にどのような帰結をもたらすかということは無視して、経験的事実を受け容れる。そうしてその謎を解く新しい発見を求めて地質学や地理学などに関心を拡げてゆくのだ。

宗教を迷信だと切って捨てたヴォルテール。自然に神秘的なものを見、科学からコスモロジーを分離しきれなかったゲーテ。しかし、どういうわけだが、この点に関してゲーテの方がより近代的な知の探求者にも見える。これも自分には新しい発見であった。

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