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ぼくらの経験としてのヒロシマ

 広島原爆投下から明日で75年。言葉で知っただけでは知ったことにならないという先般の記事を書いていてふと思い出したので、こんな古い文章を引っ張り出してみた。われながら青臭い文章で苦笑するが、ここに書かれた気持ちは今でも変わらない。

被爆者の語るナラティブ

 今日、うちの大学で開催されている広島原爆展の一環である被爆者の講演を聴きに行ってきた。授業があって途中までしか聞けなかったのだが、聞いている間、涙が出て来て抑えるのが大変だった。あまりにショックを受けたので授業なんか上の空だった。アメリカ人の聴衆もショックを受けたようで、話の途中で気分が悪くなって席を立つ人々が何人もいた。

 別にこうした被爆の話を初めて聞いたわけではない。当然、歴史的事実としてのヒロシマの話は知っていたし、被爆体験についても子供の頃から学校でちょっと左よりの先生から「はだしのゲン」を読まされたりなんかしていた。正直なところ、あまり繰り返し聞かされるので、少し大人になって現実主義者を気取り始めた頃から、「もうわかったよ、うるさいな」と感じたりもしていた。

 でも、今日の講演に行って、被爆体験の話が陳腐になることはありえないことを思い知らされ、自分の浅はかさを恥ずかしく思った。これが多くの人の耳に陳腐に聞こえるようになったときは、多分人類は「人間」として生き残ることはできないだろうとも思った。

 別に、被爆者の方が特別話し上手だったというわけではない。失礼ながら、私の母みたいな普通のおばさんで話もたどたどしい。でも、じかに原爆を経験した人の視点から語られるナラティブというのは、ひとつの爆弾でひとつの街とそこに住んでいた何十万という人々の生活が一瞬のうちにかき消されたという単なる事実や数字(それはそれだけでも恐ろしいのだが)を越えて胸に迫るものがある。そこには文学的な真実がある。

誰が誰に語るのか

 こうした被爆者の話を聞いて涙するのは、ただ単に「彼ら」の悲惨な経験に同情や哀れみを感じているからだけではない。講演者の方も、「私たち広島人の悲惨な経験を聞いてください」という視点で聴衆に話しかけているのではない。彼女の経験は聴衆を含む「我々」の経験として語られていて、聞いている方もこの「我々」に対して涙を流しているのである。

 そして、この「我々」というのは核兵器の恐怖のもとで暮らしている人類全体である。原爆の炎に焼かれれば溶け落ちる肉を自分も纏っているいるから、こんな話を聞いて気分が悪くなる。生きるという目的をもつ主体であるから、こんな恐ろしい形で命が奪われる話に動揺せざるを得ない。

 核兵器の恐ろしいのは、その無慈悲なまでの効率というか殺傷に要する努力と結果の開きの大きさだと思う。広島の悲劇はホロコーストにも比較されるが、ひとつ違う点は殺傷の実行者が直接手を汚さないでも済むという点である。爆弾を標的の上まで運んで投下すれば、後は物理的・化学的作用が勝手にホロコーストを実行してくれる。そのため、核兵器を使う人は良心のとがめを感じる度合いが低くて済む。

 ヒロシマ、ナガサキの悲劇を繰り返さないためには、潜在的に核兵器の使用を決定できる人の道徳心に訴えるしかないが、それには単に理論上の核兵器の影響を吹聴するだけでは不十分であると思う。核兵器の非人間性はこうした被害者のナラティブを通じてしか完全には再現されないと思う。

「現実」対「理想」という嘘

 もちろん、こうした被爆経験のナラティブが、核兵器の戦略的重要性を強調する現実主義者の理屈を無意味なものにしてしまう訳ではない。北朝鮮やイラン(それに米国もか?)みたいに核兵器を使って何をするかわからないような国がある以上、自ら核兵器を一方的に放棄することは自殺行為であり、より大きな悲劇を生んでしまうかもしれないという理屈は完全には否定し得ない。弱肉強食の国際政治では核兵器が重要な戦略的資源であるというのが「現実」である。だが他方で、核兵器が広島や長崎に与えた壊滅的な影響、そして今後人類に与えうる影響もまた厳然たる「現実」なのである。

 核兵器というのは、先般の日記で紹介した現代社会の内部から生まれるリスクの代表格みたいなものである。敵からの安全を確保するために銃を作り出すことが銃犯罪のリスクを生み、それがまた銃規制の必要を生むように、絶対的な安全を確保するはずの核兵器が人類を滅亡しかねない核戦争の脅威というリスクを生み、核管理の必要も生んだ。北朝鮮の脅威もやはり外からやってきたんではない。

 外敵の脅威というリスクと市民の無差別大量殺戮というリスクはどちらも現実のものである以上、我々はどちらからも逃げる訳にはいかない。現実主義者の理屈だけではなく、被爆者のナラティブも我々が直面する現実のひとつとして後世に伝えていくべきものだと思う。

 かといって、人間は飽きやすい。毎日毎日同じことを繰り返されれば、こんなナラティブだって恐らく飽きられる。特に心理的に負担の大きい話であるから、心を鈍感にしておきたいとう心理が働く。だから、やはり年に一回、こういう機会をとらえて、みんないっしょに厳粛な気持ちで話を聞くという、昔ながらの儀式が大事であるなと思う。そうやって神話などを聞かされて、昔の人もやはり日常の時間に埋没し狭くなった視野を広くげたんである。

(2008年2月27日に書いたものに加筆)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。