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「まだまだ」といわれる特権


娘の日本語補習校では、親たちが時々みんなで持ち寄った食べ物をいただきながら歓談する親睦会みたいなものをやる。売ってるもので間に合わす人もいるが、忙しい間をぬって自分で作ったものを持ってきてくれる人もいる。で、やっぱり人に食べさせてもよいと思う自慢の一品を持ってきてくれる人が多いので、何を食べてもそこらで売っているものなんかよりもずっとおいしい。

肥満の時代なせいか、どちらかというとご飯系とおかず系は売れるのが早いのに対してデザートは余りがちなのだが、私は甘いものに目がないのでここぞとばかりにいろいろなデザートをいただくのが実は何よりの楽しみでもある。

なぜ日本のデザートはおいしいか

手作りのケーキとかブラウニーとかマドレーヌとかプリンとか、本来は西洋が本場であるはずのお菓子/デザート類も、日本のお母さん方が作った方がおいしくいただけるのは、考えてみると不思議な話ではある。西洋の国の経験が少ない私には断言できないのであるが、売っているものでも世界でいちばんデザートが美味しいのは日本ではないかとさえ思う。デザートに限らずパスタでもお弁当のおかずでも、やたらに凝ってほとんど芸術の域まで高めてしまうのが近代の我が民族の特徴であったらしい。

だが、日本で美味しい西洋料理やデザートが作られるようになっ理由の一つは、西洋コンプレックスである。舶来のものはなんでも上等であるという神話に踊らされて、一生懸命西洋の真似をしてきた一つの副産物である。明治維新以来、日本人であることは西洋に追いつこうとすることでもあった。つまり、お前らはまだまだ二流の国だと外からは言われ続け、オレたちはまだまだやなと自分たちにいい聞かせながら、コツコツとあらゆる舶来品や異文化の真髄を理解し吸収しようと努力してきたあっぱれな国民なのである。

この「西洋」というモデルは権威によって与えられたものである。西洋諸国の政治的・軍事的優位のもとで、何でも西洋のものが優れているという幻想が生まれたのである。これが多くの非西洋諸国における劣等感を生み出し、脱植民地時代における負の遺産と一つとなっている。しかし、「それでも」とか「何くそ」という反発心や、「いいものはいい」という能天気さと組み合わさると、西洋覇権を凌駕するような成果を達成してきたのでもある。

「私たちってすごい」の落とし穴

それなのに、ちょっと豊かになって実際に憧れの西洋の国々に行ってみると、どうも大したことがない。なーんだ、我々が真似しようとしていたのは理想化された「西洋」という考えで本当の西洋じゃなかったんだ、むしろ我々の方が理想としての「西洋」に近いんだ、と気付かされることになったわけだ。

日本がナンバーワンだと言われたのはほんの一瞬だけで、1990年代には日出ずる国は斜陽の国へと転落してしまうのだが、それでも「オレたちってひょっとしてすごい?!」という認識だけは定着したようで、若い世代を見ても我々以前の世代のようなひどい西洋コンプレックスはあまり感じられなくなっている。

他方で、「私たちってダメね」という意識に苛まれつつコツコツと努力して、気がついたら美味しいマドレーヌを焼けるようになっていた世代に比べると、努力しなくても最初から「すごい」ことを知ってしまった日本人たちは、理想と現実のギャップが自己批判とそれを乗り越えようとする粘り強い努力に結びつかない。むしろ、努力しなくてもすごいはずのオレさまたちがうまくいかんのは誰か他人が悪いからだと思いがちな人が多そうである。

自分たちでコツコツ努力するよりも、「すごい」はずの日本人をダメにする責任者を探すことに忙しいようである。それで、悪者ばかりが次から次へと生産されては消費され続けるイヤな国になってしまった。日本の斜陽は、ひょっとするとバブルの崩壊ではなく「オレたちってホントはすごかったんだ」と気付いた瞬間に始まったのかもしれないのであった。

褒められないでも育った世代

「まだまだ」という哲学を別の側面から眺めてみよう。今日の米国の教育では、授業はつまらない代わりにやたらにすごい、すごいと子供を褒めてくれる。親も子をよく褒めるし、学校でも何かあるとすぐに何とか賞をくれる。11年しか生きていない我が娘も既に様々な賞のコレクターになっていて、このペースで行くと成人式までには叙勲してもらわにゃあかんのじゃないかと思う。よく知らないのだが、今の日本もまた子供を褒める、もしくは少なくとも「お前はダメな奴だ」とは口が裂けても言わないようになっていると思う。

なのに、今の世代の自分に対する自信が増えているようには見えない。むしろ逆で、つねに侵食される自信の代償としてインチキな自己肯定感を「やさしい」他人から与えられずには生きていけないような人が多く見受けられるように思える。

それに比べると、私が子供の時分に親や先生に誉められた記憶はあまりない。かと言ってダメな奴だなと面と向かって嘆かれた記憶もあまりないのであるが、「すごい」よりは「まだまだだな」というのが暗黙の了解であったと思う。少なくとも、自分では物心ついたころから「オレってダメだな」と思いながら生きてきたような気がする。

だが妙なことに、オレはダメであるからもう終わりだとは考えなかった。ダメであるからもっと頑張らないとならないという義務感と、まだまだだからやれば伸びるという妙に能天気な希望があった。つまり、ダメはダメなりによくなろうと努力するので、運が重なればそこそこの成果を挙げたりもしてきた。それでも自分はまだまだエセだ、二流だという思いは拭い難く、あんまし自信のない人生を送ってこんなところまで来てしまったわけである。

自己否定の中の自己肯定

「最近の若いもんは」という年寄りの説教くさい話になったが、自分はそれほど世代間に大きなちがいを見出している。褒められて育った自分たちの子が、なぜにこれほどまでに自信を失うのか当惑している。それを理解する手掛かりをつかみたいと思っているのである。

これにはいろいろな要因があるはずだが、少なくとも私の世代にはまだ「西洋」とか「アメリカ」という模範があって、何ごとについても手本を探す暇は大分はぶけた。今の世代でも最も自信過剰に見えるのは「海外では」を連発する連中で、たいがいこの海外は「欧米の先進国」の意である。

だが、「欧米」や「アメリカ」はもはや模範としての魅力を失っている。反面教師であるか、先輩というよりまた同じ悩みを共有する仲間に過ぎない。で、西洋の没落にしたがって西洋派の権威も失墜している。

同様に、自分たちの世代ではまだ親が模範たりえた。それは手が届くところにある理想でもあった。権威であるから反発もするが、その反発もやはりある種の権威の受容なのである。その親の権威が今日ではほぼ失われている。

だから、今の時代に育つ人々には、自分で自分の道を探さなければならない分だけ苦労が多くなっている。そこにまた猿真似ではない生き方を創造していく楽しみもあるだろうと思うが、権威によって手本を与えられない学童と同じ悩みに直面する点に難点がある。手本になれないから手本がいるのに、未熟な自分がその手本を選ばなければならないという矛盾だ(以下リンク参照)。

だから、若い諸君ははなはだ荷が重い問いを背負わされてもいる。われわれの世代が残していくあまりありがたくない宿題である。そんな連中から「まだまだ」と言われて「勝手なことばかり言うな」と思われてもしかたがない。だが、「まだまだ」というのは批判や悪口だけじゃないということだけは理解してもらいたい。「まだまだ」であることは若い人たちの特権であり、年寄りにそれを言うことはほとんどない。伸びしろや成長の余地がある人だけがこの「まだまだ」を頂戴できるのである。

「がんばれ」と言われること

そんなことを言うと、きっとこういうお叱りを受ける。バブル世代のお前らとちがって、ロスジェネ世代は色々な重圧に晒されている。「がんばれ」とこれ以上圧力をかけるんじゃなくて、「もう頑張らなくてもいいんだよ。君はそのままでいいんだよ」って言ってあげるべきだ。自分も、それを対症療法としては否定しない。ただ、理想を言えば、そこまで自信を失わせる前に何か手が打たれるべきだし、またそこで留まっていたらその人たちも不幸なままである。

なんとなれば、「自分は自分のままでいい」と繰り返さなければならない人ほど人一倍「私ってダメ」と心底では感じていて、その不安を懸命に否定しようとしてるに決まってる。しかし、そう言い聞かせたところで恐らく不安は一生消えてなくならない。そういう人たちを応援するのに、「そうだよ、君はそのままでいいんだよ」というのは、あまり親身でない赤の他人だから言える無責任な発言に思える。若者を他人ではなく自分たちの事業の後継者であると考えたら、とてもそれだけで放っておけるはずがない。

自分自身について言えば、こんな日記を書いてしまったこと自体がそんな大した成果も生まない自分の努力に満足してしまった証拠で、これから私の人生も斜陽に向かうのかもしれない。でも、せめてもう少し美味しいマドレーヌが焼けるまでは自分も頑張ろうと思うし、うちの子にも「まだまだだな」と言い続け嫌がられ続けるのだと思うし、自分たちが「すごい」ことを知ってしまったが故にダメになった日本人の自画自賛と他人の陰口に意地悪したくなる誘惑にも負け続けるのだと思う。

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