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大人の絵本

ケチにな親たちに財布の紐を緩ませる手段として、驚くほどさまざまな子供向け商品が作られるようになっている。その起源は必ずしも古いものではないが、少子化も手伝ってか、一人頭の支出を増大させようとばかり、各社とも新手の子供向け商品の開発に余念がない。特に、明治以来の教育熱もあって、出版業界においては子供向けの本というのがびっくりするくらい大きな市場として確立している。

子供が「小さな大人」と見なされた時代には、子供向けのものは少ない。服でも大人のものを詰めて着せたし、ハナシでも大人向けのものから子供にも差しさわりのないようなものを選んで聞かせるしかなかった。

子供の方でも、本もラジオもテレビもなかった時代には、好奇心をそそる未知の世界というのは自分の周囲の大人の世界に限られた。柳田国男の観察によると、子供は大人の言うことややることを注意深く観察して、その真似をして、自分も早くその仲間入りをしたいと願ったという。それが知らず知らずのうちに社会教育にもなったわけである。

しかし、子供のために作られた商品が氾濫するようになると、大人の社会が直接の好奇心の対象とならずに、大人に作られた商品を媒介して子供の目に映ずるようになる。学校教育の前の子供にとっては、児童文学とか絵本というのは、そうした媒介の最たるものである。

大人の社会とのきずなが切れたわけではない。子供向けといっても、作っているのは大人である。しかも、それは必ずしも子供の視点から作られているのではない。自分らが失ってしまった子供らしい心情への思いを児童文学に託したようなものが多い。日常世界に頽落している大人がもはや耳を貸してくれないような夢や理想や感情なんかを、子供を相手にするというかたちで表現している。

これを選ぶ方も必ずしも子供自身ではない。自分も子供が小さいころは一緒になって絵本や児童文学を楽しんだクチだが、大ヒットした絵本なんかを手にしてみると、なんだか月並みな人情談だったりする。子供もたいして喜ばない。どうもお母さんたちが子供に読ませたいもの、いやお母さんが一緒に読んで楽しめるような話が児童文学の傑作として売れるのである。

つまり、児童文学を通じて伝えられる社会の姿は、非常に歪めらた像である。社会では不可能だと投げすてられるものばかりが、児童文学の分野に純粋培養のかたちで持ち込まれる。

大人だって、大きくなってもどこかに子供心を持っている。私の母の父は「おむすびころころ」の話をよくしてくれたらしいが、それは「むかしむかしあるところに」ではなく、「うちの田舎には」で始まった。だから、私の母は父の実家に行くたびに、どこにおむすびが落ちていく穴があるのか探しまわったそうだ。

その父の父もまた孫たちと遊ぶのを楽しみにしていたらしい。「そこ掘ってみなさい」と言われて地面を掘ってみると、栗なんかがたくさん出てくる。じいさんがこっそり埋めておいたのである。児童文学作品にも、この子供好きのおじいさんのような人が書いたものがたくさんあって、子供の方もこうした遊び好きの大人を敏感にかぎ分ける。

だが、大人の喪失感の埋め合わせに子供が付き合わされているということになると、あまりよろしくない面も目立ってくる。児童文学が大人の世界では許されない夢や理想の表現であるとすれば、児童文学の本当の消費者は大人である。大人はそれをファンタジーだと承知しているが、子供にとっては順序が逆である。そんなものをたらふく摂取させられてから、その夢や理想を追放した当の世界に投げ返されたんでは、たまったものではない。大人の世界にすぐに失望して、その「否定」である作られた子供の世界にしがみつきたくなるのも当然だ。まさにそれが大人自身の願望であるからだ。

だから、大人になっても児童文学の世界に浸っていたいような人たちがいて、その人たち向けの商品もまた大量に生産されている。それは大人の世界では許されないような夢や願望や甘えが臆面もなく表現できるという意味で、絵本や児童文学の延長線上にある。でも、すでに社会に絶望した人たちの怨恨や諦めとも無縁じゃない妙に屈折した世界なんである。そんなどうみても子供向けとは思えないようなものを、子供と大人が一緒になって喜んで見ている。

それはそれで面白いものがたくさんあって、一概に有害であるとは言えない。むしろ、新しい文化の芽はそうしたもののなかにこそあるように感じられる。ただ、子供の社会化過程を必要以上に難しくしているとなると、文化的創造性のための代償としては高いものについているという気がしなくもない。

こんなことになるのも、大人の社会があまりにケチなものになったからだ。そうしてその社会で疎外された自己を、まだ社会に毒されない子供に投げかけてしまう。その子供だって学校に上がるような歳になれば、もう夢にばかり耽っているのを許しているわけにはいかなくなる。

「いつまでも子供らしい心を失わず、のびのびと生きてほしい」という希望も、「もう子供じゃないんだから、まずは生きていくためにやるべきことをしなさい」という小言も、どちらも親心からであるが、子の立場からは偽善に聞こえることはまちがいない。で、その結果は、つまらん日常の「仕事」と「余暇」としてのファンタジー世界への逃避という両極端を行き来する子供たちが増えたということだ。そうして、大人になってもこの二つの世界の間の溝が埋まらない。

もとよりファンタジーは子どものためのお伽話ではない。ひげを生やした大の大人が真面目に取り組んだ文学である。もし児童文学に実現が妨げられている人間性への願望が見いだせるのであれば、それを子供の世界に押しこめずに、大人自身の願望として認めること。それは、世の中にはまだ実現されない願望があるのであって、すぐに実現が難しくとも理想として追求すべき価値というものがあるということを認めることでもある。そうしてはじめて、児童文学というのが「大きな子供たち」の「小さな大人たち」に対する真摯なメッセージたりうると思う。

(2019年5月21日)

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