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恋とは

「アンソロポロジーとは」というテーマで書いてるんだけど、タイトルがイケてなかったか、出だしがまずかったか、第一回はあまり読まれなかった。それで書きあぐねている。それで、とりあえず別の「とは」を扱った古い記事でお茶を濁しておく。

いい年こいたオヤジが恋なんて語ると清いものを汚された気持ちになるだろうけど、本当に恋について理解できるのはたぶん年とってからなんである。

お互いの合意だけじゃダメな恋

最近、家族団らんの一環として日本のテレビドラマを見させられる。それで気付いたのだが、私は滅法ドラマという奴に弱くて、面白いとかつまらんでは済まされないことがある。好きかと言われれば嫌いだし、見たいかと聞かれれば見たくないのであるが、むしろ免疫がない分だけ感情移入してしまって、見終わってからもしばらく動揺させられてしまう。中でも尾を引くのは恋の物語、それも別れで終わる悲恋のそれである。

何かを始めると終えるまで落ち着かない私は、始めから結末が判っているようなお粗末なドラマでも最後まで見ないと気になって仕方がない。それがハッピーエンドで終わればすぐに忘れてしまうのであるが、なぜか日本のドラマにはそのように終わってくれないものが多い。忘れるためだけに最後まで見たのに、解放されないような結末ではまったく迷惑きわまりない。

恋する者が別れてしまうのには理由はいろいろあるのだけど、いちばん切ないのは本人たちは好き合っているのに、社会上の慣習や周囲の人々の無理解に阻まれて本人たちが諦めるやつである。

恋愛は自由といわれる時代でも、実は恋の相手にはいろいろうるさい制限が付いている。不倫の恋なんていうけど、既婚者、親兄弟、師弟、未成年、同性、年齢差のある人、異なる社会的地位の人なんていうのは恋愛の対象としてはふさわしくないということになってきた。それで一般的には恋は若い独身の男女の間に起きるのがいちばん健全ということになっているのだが、他方でそれゆえに禁じられた恋こそがドラマの主題としては魅力的なのである。恋にはちょっと反社会的な要素がある。

成就しない恋というのは昔からドラマには常連の主題なのであるが、なぜにこれほど壊滅的な影響を自分に与えるのかよくわからない。実りのある恋愛経験が豊富とはいえない自分としては、まずは文字から入ってみるしかない。

恋はラブではないらしいこと

で、広辞苑を引くと、いまでこそ恋と愛は同じようなものとされているのであるが、もともとは遠くにいる人や死んだ人、帰れない故郷などを慕う気持ちらしい。つまり、成就しない恋が本当の恋なのであり、成就した時点でそれはまた別のものになるのである。和英辞典を調べると、英語は恋も愛もラブであり区別していない。でもラブには会いたくて会えなくてという思いはないので、恋の意味を伝えきれていない。英語では I miss you の miss の方に意味が近い。

今日的な意味では、恋をするというのは、誰かが誰かを好きになって今まで以上の関係を築きたいと思うことである。もちろん、社会に住んでいる以上は人はいろいろな人に出会って関係を築いていくのだが、恋をするというのはそうしたものとは本質的に違う特別な精神状態であるという理解が共有されている。何が違うのかを理解するために、恋というものは成就しないものであるという点が重要な気がする。

自分の居場所探し

我々個人は人間関係の網の中に生まれてくる。まずは家族があって、ご近所、学校、職場などいろいろな関係の中に入っていく。つまり、個人というのは孤立した存在ではなく群れの中に生まれ育つのである。これがあるから、人間は独りでは達成できないことを達成できるし、また愛情や思いやりに飢えずに済むわけでもある。

でも、群れに属するというのは同時に個人にとっては桎梏でもある。それは他人のために自らの独自性を犠牲にすることを強要するものなのでもある。もちろん、個人が群れに対して全く無力というわけでもなく、自らの働きかけで関係を自分にとってより心地よいものにすることも不可能じゃない。でも、多くの場合、そうした人間関係の総体は「場」として与えられたものであり、我々はそれを甘んじて受け入れて生きているわけである。

この場の中に自分の居所を見つけて生きていくのが人の一生なのであるが、その居所探しには能動と受動とが分ち難く結びついている。自分で探したり作り出したりしないとならないのであるが、それは誰かから与えられたものを受け入れていくことでもある。つまり、ある個人の人間関係というのは自分の選択の結果でもあるのだが、同時に場によって強要されたものでもある。多くの人は自らの境遇にそれなりに満足しているのであるが、可能であれば別の人間関係を築きたかったとも思うこともある。

反社会的な恋の社会性

恋をするというのはこの能動、つまり自ら他人に働きかけて、自らの場を作り上げようとする行為の究極の形態なのだ。しばしば恋には理由がなくて、なぜその人に恋をしないとならないのか説明できない。特に禁じられた恋では、恋しない方がよい理由の方がわんさとある。でも、まさにそこが恋の恋たる条件なのである。家族は選べないし、学校や仕事など選ぶのは理由があるわけだが、恋の対象は誰からも与えられないし、またそれを選ぶ基準は自分自身以外にはないわけである。

恋をするというのは、今自分が属している場から自らを疎外して、個を主張するということなのであり、恋の対象との関係を自らの意思で作り上げることにより自分自身を作り替えることができると思い込むことなのである。恋とは、場に埋もれて失われた自分、本当の自分、まだ見ぬ自分、つまり遠くにいて会えない実現以前の自分を慕い、それを恋の対象との関係において実現したいという欲望なのである。

成就しない恋が切ないのは好き合っている二人が結ばれないからでもあるが、この大それた自己実現の事業が失敗に帰するからでもある。中には恋に溺れて帰る場さえ失ってしまう場合もあるが、多くの人はもとの場所に帰って行く。最近のドラマは悲劇もあまり重たくしないから、成就しない恋の結末もみんなが元の鞘に納まって行くことが多い。でも、それが敗北であるという事実は変わらないのである。むしろ、恋に殉じるより敗北を甘んじて受け入れる結末が余計に切ないわけである。それはロマンスというよりはロマンスの否定なのである。

その恋でさえ成就してしまうと、往々にして恋人関係とか家庭として場の一部になって個人を束縛する。二人は結ばれて末永く幸せに暮らしましたというエンディングの前に、恋の物語は終わってる。

恋というのは突然嵐のように襲ってくるものなのだが、どうやらそれは運命の人に出会ったからというわけではなさそうである。恋に落ちる人はすでに久しく嵐の到来を心待ちにしているのである。そうして、一見波風を嫌う世間においても、老若男女を問わず、ひそかに嵐の到来を待ち望んでいる人がたくさんいるのだと思う。

(2011年04月29日)

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