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「知性はぼくにもあるが、君にもある」に潜む差別意識(?)

割引あり

別の話を用意しておいたんですが、最近世上をにぎわせたある事件を眺めていて、いろいろと考えるところがありました。そこで、今回はそちら関係の話を先にしてみようと思います。

表題のとおり差別に関する話で、戦争の話と同様、誰か他人を公開処刑するのでもなければ、避けて通られがちな話題です。たぶんこの記事も閲覧数ががくっと減ると思われます。新しい商売を始めたばかりの自分にははなはだ都合が悪いんですが、そういうことを言っているから差別がなかなかなくならない。ここは私益を犠牲にして公共善のために尽すべきかなと、頼まれもしないのに思ったわけです。

と言っても、まだほとぼりの冷めてない事件で、炎上やバズを避けるために現在進行形の話題には触れない、という自分の美学(?)に抵触しかねません。そこで、なるべく距離を置いてものごと見られるように、遠まわしに話を進めていきたいと思います。

というわけで、フランチェスコ・グィッチャルディーニという人の引用から始めたいと思います。グィッチャルディーニは16世紀のフィレンツェの政治家・歴史家でして、まあわたしらとはあまり縁のなさそうな御仁ですから、いたずらに感情を刺激しないと思います。

その人が子孫たちに遺した箴言集みたいなものがありまして、その中の一つにこういうものがあります。

ある人物が私にたいして、悪意でなく意識せずに危害を加えるばあい、私にとってどのようなことが起こるとみてよいのだろうか。実は、かえってまずいばあいが多いのである。というのは、悪意をもって害が加えられるときは、きまった目的をもっているのである。そして一定の法則にしたがって事が進められる。だから必ずしも最大限の危害を与えうるとは限らない。ところが意識せずに害を加えているばあい、これといった目的も、法則も、また手段ももちあわせているわけではないので、がむしゃらに突き進み、目が見えないのに棒をふりまわすのと同じようになるのだ。

『フィレンツェ名門貴族の処世術 リコルディ』永井三明訳

さて、よく指摘されることですが、差別というのもの悪意のないばあいが多い。これだけ「差別はダメ」とうるさく言われる世の中で、なぜ差別がなくならないかというと、本人は差別してるという自覚がないことが多いのがひとつ理由のようであります。

たとえば、前にもどこかでお話した記憶があるんですが、米国ではコンドミニアムとかゲーティッド・コミュニティと呼ばれる集合住宅(日本でいう高級マンションとか中流以上の人のための集合住宅)があります。そういうところに入居するためには、住民の組合の承認をえなければなりません。ところが、白人の多いところでは、たとえ十分な収入があったとしても、肌の色が濃い人たちの入居が拒まれる確率が統計的に高い。あるいは、職種や収入において、肌の白い人たちよりも高い要件を満たすよう要求される。

誰の目にも明らかな露骨な人種差別じゃないかと思われるんですが(アフリカ系ほどひどくなくとも、アジア系も対象たりうる)、入居を拒むほうはそう思ってない。肌が白くない人たちが多く住む物件は、市場における価値が低くなるんですね。だから差別してるのは自分たちじゃない。不動産市場である。自分には人種的な偏見はない。肌の色の白くない友人もたくさんいる。ただ自分の資産の価値を自ら低めることを強要されるいわれはない。そういう意味では、自分らも差別の犠牲者だ。そういう風に思っているんですね。

先般、ある公人が公けの場で職業差別を含む発言をしたということで批判を浴びました。特定の職業においては知性や頭脳を要しないような言い方をしてしまったんですね。その人自身がもとは大学の先生で、高い知性や秀でた頭脳をもっていると目されるような経歴の人物です。

そういう人ですから、どこか頭の片すみでは、牛飼いとか野菜売りとか職人なんていう商売はあんまり頭を使わない、だから大学を出ないような人でもできる、という偏見があった。それでそういう失言がぽろりと出てきたんじゃないか。そういう疑惑がかけられました。ですから、これなんかも悪意のない無意識の差別の一例かと思われます。

ということになると、自分には悪意がないから差別ではないとは言い切れないことになります。たとえ差別ではないとしても、無実の人に対する加害にはちがいない。いや、グィッチャルディーニのことばに従えば、そちらの方がよほどたちの悪い加害たりうる。

となると、どうしたらそういう加害を避けることができるか、という話になると思います。自分が差別しているという自覚があるかどうかでは、加害者であるかどうかは判断できないんです。それどころか、差別に反対すると公言してる人が、差別を根拠としてなされる加害に加担しているということさえありうる。さらに事態をややこしくすることに、悪意のある差別よりも、無自覚の差別のほうが、被害者を途方に暮れさせ、また差別をより根深いものにしてしまいかねない。

ですから、理屈からいえば、露骨な差別発言を公けにしたり差別を正当化するような不届き者を何人処刑したところで、差別はなくならないんですね。本気で差別をなくしたいのであれば、この悪意のない差別をなんとかしないとならない。そのためには、まずは自分も差別に加担していないかと疑わないとならない。どうもそういう話になってきます。

ですが、そうなりますと、もう誰も「自分だけは大丈夫」と安心していられなくなります。「よい子」のはずの自分も実はいじめの構造の一部であったなんてことになりかねない。これがひとつ、差別の話が嫌われる理由かと思います。

まあ、煩わしい話なんですが、逆に言うと、そうであるからこそ、差別の問題においては、みんなが過ちを犯しかねない者としては平等であるとも言えます。差別の犠牲者になっている人々さえ含めて、そうなのであります。

ですから、今回の失言のように、なにか悪意のなさそうな差別に遭遇したときに、その過ちを指摘して批判すると同時に、ちょっと自分のことを顧みて反省してみる、というようなところまで行けるとよろしいのではないか。自分なんかはこう思うわけであります。これをヘイトスピーチなんかと同列に扱ってしまうと、益より害の方が大きいんじゃないかと思うんですね。

それでちょいと気になったのが、この発言に対して最初に非難の声を上げた方々は、たぶん侮辱された野菜売りでも牛飼いでも職人でもありませんで、まさに知性と頭脳を武器や商売道具としておるような方々じゃないかと思います(その前に、きっと別の理由から彼を憎んで、攻撃の機会を窺っていた人びとが騒いだんだと思いますが)。どんな職業にだって知性を用いる局面があるんだから、ある職業は知的でその他は知的ではないと言うのは職業差別である。そういうことを、一般には知的な職業だと見なされるものに従事している方々がおっしゃっている。

ふだんは自分たちの知性を鼻にかけているような人びとも、具体的な問題においては、ぼくらのものとはそうかけはなれてない良識をお持ちなんだな。それが確認できたことは嬉しい発見であったのですが、その物言いが、自分のように知性とか教養とかいうものに少なからず疑義を抱いている人間には、ちょっとひっかかるところがあります。

というのも、彼らは知性をおすそ分けしさえすれば、それで褒めたことになると考えてることにおいては、その差別発言を行なった人と大差がなさそうです。知的であることはよいことであり、人やその仕事を知的であるといえば褒めたことになる。ここになんの疑問も感じておられないようなんであります。

知性があるというのが悪口たりうると言うと、不当な言いがかりにしか聞えないかもしれないんですが、これと真逆のばあいを考えてみると、わたしの言わんとすることが少しは理解してもらえると思います。たとえば、冷暖房のきいた部屋で文字の読み書きをすることによって、自分の作ったものでもない生活資料を得てる人が、「いやあ、こんなのもけっこう肉体労働でしてね」と口にするのを聞いて、夏の炎天下でも冬の寒空の下でも外で肉体を駆使する誇り高き労働者がどう感ずるか。

これは仮想上の問題とはかぎりません。平均すると社会においては知的要素を多く要求する仕事の方が価値が高いということになっています。つまり、より多くの報酬がもらえる。だから、選べるならば、みんなそういう仕事に就きたがる。それで、競ってでも学校に通いたがる。どうやら、肉体労働(むろん知的な要素が皆無ではないけど、肉体を使う度合が大きい)と頭脳労働(肉体も使うけど、頭脳を使う度合が大きい)が生み出す生産物では、交換比率が後者より前者に不利になっているという想定で、みんなが行動してるように見える。

さらに言うと、社会分業における頭脳労働と肉体労働という区別は、必ずしも前者には肉体をぜんぜん使わないとか、後者は頭を要しないなどということではないんじゃないか、と思われます。そうではなくて、分業体制を一つの身体として見ると、頭と四肢みたいなものがある。考えて指示を出す部分と、その命令に従って動く部分がある。四肢もさまざまな情報を収集して伝達しますが、それを評価し綜合し決定することは、頭脳にまかされている。問題とされる職業差別発言において「知性」とか「頭脳」とか呼ばれたものは、自分には、どうもそういう分業体制の含意があるように思えます。

くだんの発言は行政官になった人たちを鼓舞する目的でなされたものでして、たぶん意図としては「諸君は人一倍考えないとならない仕事に就くだけの知性を有してる(だからもっと考えろ)」と言いたかったのだと思います。これが公けのために権力を行使する官吏であるからわかりやすいですが、在野の知識人だってやはり同じような分業上の位置を要求してないでしょうか。

これもいつかどこかで書いたんですが、星新一のショートショートに博士とロボットとの関係を描いたものがありました。まだ未開の星々に科学文明の恩恵をもたらすべく、自分が作った万能ロボットを連れて、宇宙を旅してる博士がいる。博士は殊勝な人なんですが、ある星で感謝のためにぜひ銅像を立てたいと言われてみると、「まあ、そういうなら」とまんざら悪い気もしない。ところが、完成したものを見ると、それは博士ではなくロボットの銅像であったという落ちがついています。未開人からは、考えて指示を出す博士ではなく、実際に肉体(?)を使って世界を作り変えていくロボットの方が主体に見えたんですね。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。