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世界に裏切られ続けないためのその一

割引あり

学問で幸せになれる?

ひとは幸せを求めるものであります。幸いなことに、ひとを幸せにしてくれるものはたくさんあります。一杯のコーヒーや一本のタバコでさえ、幸福をもたらしてくれます。残念ながらしかし、こうしたものがもたらす幸せは束の間のものです。

おカネでさえそうです。足りないときは、「ぼくはカネさえあればほかになにも要りません、どうかおカネを授けたまえ」と祈りたくなるんですが、いざ満ち足りてみると、これほどつまらないものもない。カネのありがたみは他のいろいろなものと交換できることなんですが、そうするとカネで交換できるものがありがたくなくなる。そして、「神様、お金なんてもういいですから、愛をください、愛こそがすべてです」なんて言い始める。

そういうわけでありまして、なにが究極の幸せをもたらすものなのかを、ひとは昔から繰り返し問うて答えてきました。先にそれを知っておけば、人生の尻になって後悔しないですむ。コスパよく幸せを追求できるわけです。逆に言うと、知らないと無駄な努力をしてしまうリスクが高いですから、決心がつかない。知れるものなら知っておきたい。まあ、自然な要求であります。教えられるものなら、義務教育で教えておくべきことであります。

ところが、お金とか愛情ほどではないですが、ひとつ昔から人望を集めてきたのが「学問」とか「知」という答えです。すなわち、学問をやると幸せになる。なんのための学問をやるかというと、知るためであります。つまり、なにかを知ることが人を幸せにする。しかもありがたいことに、この知る幸せは束の間のものではないらしいんですね。ひとたび知ってしまえば、まあ死ぬまでは(あるいは死後でも)幸せでいられる。そういう主張であります。

ですから、学問とは、なにがひとに幸せをもたらすのかについて考えることである、と勘違いさせられてる人がたくさんいるほどです。ところが、幸か不幸か、それはかなり例外的な事象であって、学問の大半は幸福問題については冷淡であって、あまり真面目には扱われていないんですね。

確かに知ることは喜びであります。たとえば、株価変動の法則みたいのを知ることができれば、思うがままに儲けられます。未来を知ることができれば、賭け事で負けを知りません。女心・男心がわかれば、思うように異性を口説ける。どうすれば立身出世できるか知っていたら、もう自分のキャリアに思い悩むことはない。

だけども、どんな学問をやったところで、上記のような知を得られたという話は聞きません。いや、そういう知が得られたという宣伝文句はいくらでもそこらにころがっていますが、そんなことがわかった人がいたらわざわざ他人に吹聴する必要がありませんし、してしまったらもうその知が役立たなくなる。まあ、一種の錬金術として、疑ってかかった方がよろしい。

どんな幸せよ?

ということは、学問から得られる知がもたらす幸せというのは、どうもそういう幸せとはちがう種類のものです。なあんだ、つまらん、それじゃそれはいったいどんな喜びなんだ。そういう話になるかと思います。

そこで、そもそも学問こそが究極の幸せをもたらすという主張における学問とは、いったいなにを知るためのものなのか、それはどういう幸せを想定していたのかを、調べないとなりません。学究的生活こそが究極の幸せという意見は、古代ギリシアの哲人たちにまで遡れます。ソクラテスとかプラトン、アリストテレスとかいった人たちですね。今日の哲学専門家の方々とはかなり毛色のちがう御仁たちであります。

なにがちがうかと申しますと、かつての哲学には、今でいうところの自然科学も含まれていました。いな、ルネサンス期くらいまでは、哲学というのはむしろ今日の自然科学に対応するものが主でありまして、文法、修辞、詩、歴史といったものを含む今日の人文諸学とは区別されていました。それは人間の精神の産物よりも、まず「存在」というものを扱う学問であったんですね。道徳でさえ、こうした「存在」との関係で語られていました。

ですから、大雑把に言えば、かつて「哲学」というラベルでくくられていた学問の原型みたいなものは、「存在」を対象とする学問であった、ということが言えなくもありません。学問が人を幸せにするのは、この存在について知るからなんです。

存在を知ってどうすんのよ?

では、この「存在」なるものはいったいなんであるか。そういう話になると思うんですが、これについてはどこか別のところに書きましたから、ここでは省略いたしまして、次のことだけ言っておきます。存在とは「ある」ことであって、この宇宙を構成するもの全体が「存在」であります。いま私たちの目の前にあることだけではなく、かつてあったこと、これから起こること、ここでだけではなく私たちの目の届かないところで起きていること。これすべて存在の現れ(存在そのものではないかもしれないんですが)であります。

人間の住む世界も、またわれわれの一人ひとりもまた、そうした宇宙の一部として存在している。それはわれわれひとり一人の存在以前のもので、そこに私たちが投げ込まれる、そしてそれゆえに受け入れざるを得ない条件を構成するところのものであります。

よく用いられるたとえとして、川の比喩があります。川の水は流れ去っていきますが、川自体は同じ川としてそこにある。同じように、この宇宙では万物が変転し去来していきますが、宇宙自体は同じ宇宙としてある。川の水を構成する水の一滴一滴がある前からあるし、それが無くなってもある。そのようなものが「存在」です。われわれはその川を流れる水の一滴として存在している。そういうたとえです。

学問が人を幸せにするという考えには、この存在するもののうち、どのくらいを自分にとって意味あるものとして取り込めるかという基準があるようです。たとえ一滴の水であっても、その精神のなかに存在全体を収めていれば、それだけ幸せである。逆に、この宇宙に自分にとって無意味なもの、あってもなくてもよいもの、だから知らんでもよいと思ってるものが多い水滴は不幸である。そういう基準です。

いったいどういう理由で、このような基準が用いられるんでしょうか。想像するに、こういうことではないかと思います。自分の存在条件について知らないことが多い人は、いつかどこかで必ず世界に裏切られます。つまり、世界とはこうであろうと思っていた自分の期待が裏切られます。だから、その幸せも儚いんですね。知るということは、世界から裏切られないということなんです。

と言ったって、完全に知ることができるわけではありません。先ほどの例をまた取り上げると、この株、あの株の価格が一か月後にどうなっているかを予測できるような学問はありません。こうすればあの娘を口説ける、あるいはこの上司やあの顧客をうまく籠絡できると確言できる学問もありません。未来の予測ばかりではありません。かつてこんなことがあったと失われた過去を完璧に再現できる学問もありません。

それでも、存在についてある程度知ることができれば、この宇宙で起こることはまあこういう範囲であるという目途が立つ。株価は上がるものとばかり思っていた者にとっては、株価下落は沈んだ太陽がまた昇るくらいの大事件で、世界が壊れたとかなにかが狂ったと思ってパニックになるかもしれません。だけども、株価は需要と供給の関係によって上がりもすれば下がりもすると知っていれば、損してがっかりはするでしょうが、世界に裏切られたとまでは思わないでしょう。

そのように、なにか期待外れのこと(特にじぶんにとって悪いこと)が起こったとしても(あるいは過去にあってはならないと思われることが起こったと知れても)、熟考すれば「まあ、それもありうべしだ」と納得がいく。それが「世界に裏切られない」という意味です。

無知の罪と罰

しかし、どうしてこんな当てにもならない知が幸せをもたらしてくれるのか、そんな知であればわしは遠慮させてもらうよ、まあ存在なるものは哲学者の諸君に任せておいて、自分は株価や女心や上司・顧客の操縦術の研究にいそしもう。そうお考えになった方も多いかと思います。

実は私なんかも哲学音痴でありまして、「存在とは何か」という問いは本で見かけて子どもの頃から知っていたんですが、その意味が長いことわかりませんでした。いや、言葉の意味はわかるんですが、そのような抽象的な問いを問う意義がわからない。なんでこんな問いが多くの優れた頭脳を悩ませたのか、理解できませんでした。ましてや、この問いに対する答えがひとに幸せをもたらすかもなんて、想像もつきませんでした。ですから、まあ哲学者たちの暇つぶし談義くらいに思っていたわけであります。面白いのかもしれませんが、自分には関係ないな。そう思っていた。

だけども、最近気づいたことがあります。われわれにも、「自分はなんのために生まれてきたか」とか「自分はどういう目的のために存在しているのか」なんて悩むことが、人生で何度かはありますね。今日では「本当の自分を探す」とか「私らしく生きる」という言葉で表現されることが多くなりましたが、まあ同じような意識を異なる言葉で表した同工異曲です。

すなわち、哲学と無縁の凡人でも、深層心理においては自分の存在意義について不安を抱いているようなんです。しかし、存在意義とはなんでしょうか。何を隠そう、それは存在全体における位置づけにほかなりません。意義をもつということは、存在するものの意味(目的)の系列(すなわち「世界」)において、他のものとの関係のなかに自分の存在を位置づけるということなんですね。

ですから、この宇宙に自分にとって無意味なもの、あってもなくてもいいもの、むしろないほうがいいもの、関心の持てないものが多いということは、その分だけ存在が自分の外にある。いや、それだけではなくて、居ながらにして自分が世界の外にいるかのように振る舞っている。世界に裏切られるのは、自分がすでに自分(の存在を意味あるものにする存在自体)を裏切ってるから、ということになります。これが無知の罪であって、世界に裏切られるのはその当然の罰ということになってしまう。

ですから、かつての哲学においては、外にある宇宙と人間の内にある宇宙は相互に対応していて、その内容が完全に一致することが究極の幸福であるとされた。だけども、この対応関係は潜在的なものでありまして、生まれたときから宇宙を知っているわけではない。ですから、知るということは、自分の内にあるんですがまだ眠っているものを覚醒させることなんですね。これを、存在するものに出会いながら遂行していく。これに専心することが哲学と呼ばれたんですね。

もう君は哲学してるかも

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。