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ぼくらは真面目の置き所をまちがえてる

どこかの阿呆が大声で歌っておる。はじめは鼻歌だったのが、だんだんと熱が入って、声が滑稽な真剣味を帯びる。滑稽なのは歌詞の内容がその真面目さと引き合わんからだが、彼が自らの任務を遂行しようと骨折る厳かな気持ちだけは否むことができない。

厳かな態度

音楽の消費者となった自分たちは、歌は他人を楽しませるものだと思っているが、どうもそうではない。風呂場などで一人でもわれわれは歌うし、むしろ一人で歌う方が真剣になれる。カラオケなどに行くと、他人の歌などちっとも聞かんくせに、独りで熱唱して悦に入ったりする。

音楽は感情に訴えかけるものだが、その形式は厳密に数学的なものである。空気の振動数とその時間上の配置の問題である。人間の心が快いと感じる音の組合せには、無視することの出来ない決まった法則がある。美しい歌とは、この法則に可能な限り近づく歌のことである。優れた歌い手とは、大ざっぱではなく、こまかいところまで気配りの行届く空気のふるわせ方を知っている者のことである。

そういう意味での歌は、遊びではなく真面目に向き合わないとできない。この真剣さが、外から聞くと美しく聞こえる音楽を生み出す。他人の耳など気にせずに歌に打込むとき、ぼくらは無意識のうちに永遠の真理に対して敬虔な気持ちになっている。真剣な態度で世界に対峙している

だから、神さまに捧げる歌もまた真剣に歌われ、それが故にそれを聞く耳に美しく響く。歌だけではなく、およそすべての宗教的な儀式はいい加減には執り行われない。それは細部にまで渡って規制され、その細かい規定ををいちいち遵守しなければならない。神さまのことをよく知っている専門家によって管理され、執り行われなければならない。「厳か」というのは、形式への厳格な服従である。

なぜなら、宗教的儀式においては、ちょっとした手落ちでさえもその効果を無に帰すかもしれないのみならず、果ては大きな災厄を引き起こしかねない。神さまなり自然なりというのは、人間に期待できるような寛容を期待することが出来んのである

聖なるものが要求する真剣さ

デュルケムによれば、宗教とは聖なるものと俗なるものの区別から生じる一連の信仰や実践の体系である。しかし、この聖なるものとは人知を超えたものであるとは限らない。実際に、聖職者は聖なるものに関する知識を自らの権威の源泉としている。

そうではなく、聖なるものの根源とは、神にしろ自然にしろ、人間とは独立して存在しているもの、つまり人間には所与のもの、人間がそこに投げこまれる世界を構成するものであったように自分には思える。それは元来文字通りモノである自然であった。モノは語らない。その内面は闇の中に閉ざされており、人知はそれを外面から捉えるしかない。

この不可視性がモノを聖なるものとする。人格神になると、言語という媒体を介した人間とのコミュニケーションのようなものが成り立つ。何とかコミュニケーションを確立したいという人類の願望が人格神が創り出したのだろうが、その神の内面も人間には完全に見通すことができない。その隔たりが人間の側に真剣さを要求するのである。

自然科学の発達は、人間の自然への支配力を増長した。もはや自然は甘受すべき条件ではなく、利用すべき資源へと名を換えた。それでも、自然との付き合いは人間のようにはいかない。自然を支配するためには自然の法則に服従しなければならない。科学は厳密な学問であるし、その科学を自然に適用する技術も厳密に運用されねばならない。なぜなら、零コンマ以下の誤差が大きな災厄をもたらすかもしれない。「はやぶさ2」が「リュウグウ」に到着することは奇跡ではないが、その設計、組立て、打ち上げなどは、自然の摂理を知悉した専門家により「厳か」に執り行われなければならない。

俗なるものと寛容

科学が厳密でなければならないのに比べて、人文系の学問はあまり厳密ではないとされる。理由は、人文学は精神的存在としての人間を対象にするからである。自然と異なり人間は「寛容」であるからである。完璧ではない歌や音楽に、かえって人間味を感じて感動するような感傷主義者であるからであり、大きな支障がなければ、零コンマ以下の誤差なんか気にせずに、どんぶり勘定でやっていこうとする怠け者であることを互いに認めているからだ。平たく言うと、互いに融通がきく

だから、ちょっとくらい不正確なもの言いをしても、分ってもらったと思っているし、分かったと思ったりしている。この寛容を利用して人を騙そうとする連中もいるのだが、いい夢を見させてもらえるならちょっとくらい騙されてやってもいいやと思ってるから騙されるという面もある。

聖なるものと違って、俗なるものとはこの寛容を許すものである。人間がモノとはちがって、自分らと同様の精神内容を有しており、あえてすべてを表にしなくても、互いの気持ちを読みあう共感が成り立つのである。この共感があるからコミュニケーションがなりたつし、コミュニケーションが成り立つから共感を拡げてもいける。だから、人間の関係というのは変化しうる。互いに働きかけることによって新しいもの、ちがったものになりうる。法則から自由で開かれている部分がある。

そうなると、人間に自由があるのもこの寛容があるかぎりである。人間の社会的な関係においては、互いに許すことのできる「緩み」が存在する。俗なるものに関するかぎり、真面目であるべき生活においてさえ、何らか「遊び」の要素が入っておる。

もちろん、こうした人間関係にも「真面目さ」「真剣さ」が必要である。だが、それは聖なる領域に要求される「真面目さ」「真剣さ」とは異なる性質のものである。科学者が自分の研究対象に向かうのと同じ「真剣さ」で家族や友人とも向き合う人がいたとして、どういうことになるか想像してみるがいい。

資本主義はジャングルか

資本主義なんて大仰な名で呼ばれるものにしても、生きるか死ぬかの競争ではない。実際に、資本主義における競争を一種のゲームか賭け事に譬えているような一群の人々がいる。財を為したり失ったりするのは笑い事ではないから子供の遊びとはちがうが、それでも、大人の遊びにはなりうる。遊びであるのは、その結果が大したものではなく、大目に見ることができると考えることができるかぎりである。

そうした条件においてのみ、ぼくらはあえて危険を犯す自由冒険の権利を得るのである。残念ながら、われわれ多くの庶民にとって市場はこのような意味では遊びの場ではない。それを一部の金持ち連中や大企業が遊びの対象にするから、憎まれるんである。

多くの人は市場での競争において生死にかかわる危険に晒される。だから、そういう人たちは資本主義を今度は弱肉強食のジャングルの比喩でとらえるようになる。人間の力では御せない自然である。だが、この比喩も限度を過ぎると誤りに陥る。飢えた奴の横で平気で飽食するような奴が枕を高くして眠れるのは国家権力に護られているからで、そうでなかったら麻薬組織のボスみたいに私兵団でも雇わなければおちおち商売なんかしてられるわけがない。

資本主義は自然のジャングルではなく人工的に造られた世界である。それ以外ではありえないという意味での必然性はない。言ってみればジャングルよりモノポリーのゲーム盤の方に近いんである。それなのに、そんなところだけで平気で人の価値を決定して負けた者は食われてもよいみたいな勘違いするから、嫌がられるのである。それをジャングルとか自然淘汰とかいう自然の譬えで正当化するのは資本主義の神にたいする敬虔な態度かもしれないが、くだらない流行歌を大真面目に歌う阿呆と同じである。

寛容の限度

だから、俗なるものの「寛容」にも限度がある。生死がかかわるような問題ともなれば、相手の過失を笑って許すわけにもいかなくなる。「厳か」に向かうべき聖なるものに対して、俗なる態度で向かわれてしまっては、これを見逃すわけにはいかない。

人間と違って、自然は過失を許してはくれない。いや、百回に九十九回は許すかもしれんし、一回でも許してくれないかもしれない。自然には説明責任がない。ただ犯された過失に対する罰が統計学的な厳格さをもって下される。人手が足らんからとブレーキの検査に手抜きをすれば、車が止まるべきときに止まらないかもしれない。センサー部品がどんぶり勘定に設計されたがために、落ちなくてもよい飛行機が落ちるかもしれない。

以前「生命への畏敬」について何度か書いた。この「生命」というのは自分たちのことなんであるが、同時にそれは自分が作り上げたものではないという意味で「自然」の一部でもある。モノである。そういう意味では聖なる領域に属す。生命をおろそかにしてはならないという倫理の基盤もまた、この生命のもつ他者性にある。生命にかかわることに関してはやはり厳かに向き合うことが要請されるのである。生命の誕生と死であるから、性の問題もここに含まれてくる。いくら性が娯楽化、商品化されても、娯楽化、商品化されがたい部分がどうしても残る。

人間が自然の中に食い込み、その力を我が物にするようになると、聖なるものと対峙するときの緊張を強いられる場合もその分増える。しかし、現代では聖なるものと俗なるものの区別はますます混乱している。聖なるものが俗なるものの手段として用いられるようになっている。遊びにならんものが遊びの駒として使われておる。ちょっとした気の緩み、判断の不足が、原発事故のような大災害を起しかねない。生命自体に手を加えようという遺伝子工学なんてのはまさに神の創造の領域に踏み込むもので、どんなに厳かに接しても厳かすぎるということはない。

その半面、社会自体が精密機械のように綿密に設計され、操作されるものとして扱われるようになると、人間関係のあいだの「寛容」が薄れる。そうなれば、法令のような厳密な規定を厳かに遵守することが人倫であるというような誤謬が生じる。共感をもつことのできるはずの人間がモノとして扱われるようになる。コミュニケーションではなくなんらかの不動の原理なり法則によって人間関係を律しようとするようになる。そうして自由が失われる。

そうだとすると、どうも我々は真面目の置き所を間違えておる。自分らの精神を神化し自然の上に据えてしまっている。外の星から見ると、つまらぬ流行歌を大真面目に歌う阿呆よりも滑稽なことになっておるかもしれない。

日本における「阿呆」の特徴

蛇足だが付け加えておく。自分の印象であると、日本はまだ社会をモノとして見ることが苦手である。ほとんどの人は社会科学的な視点で社会を見ることがない。社会科学者を名乗る者でさえそういう人が多い。そうではなくやはりコミュニケーションの対象として見られてる。だが、そういう「社会」には自分の「身内」までしか含まれてない。

こうした「身内」は融通が利く反面、常に忠誠を尽くしてないとならない。だから、「そこかよ!?」っていう変なところに命かけてる人が多い。平均的にみると、欧米人なんかとはやっぱり真面目の置き所がちょっとちがうなという印象を受ける。仕事の成果より人間関係を大切にする。良くも悪くも。

そうであるのに(というより、そうであるから)、「身内」の外の「世間」、広い意味での「社会」はモノ扱いになる。社会科学的なモノ化というよりは、「よそ者」化である。「渡る世間は鬼ばかり」であって、社会自体の改造より鬼から自分を守ってくれる「身内」に救いを求める傾向が強い。だから身内の間では甘え、よそ者との関係では無関心や敵意に支配されやすい。そんな目で見るからかもしれないが、ツイッターのやりとりを国際比較してもそのように感じる。

そういう意味では社会工学的な意味でのモノ化が浸透しにくい文化があるように見える。完全にモノ化された社会はまだ経済学者とかコンサル連中の講義のなかにとどまってる。よく言えば、俗っぽいこと、人間的なことに真面目である。悪く言えば、子どもの口喧嘩みたようなことに力こぶ入れてる人が多い。聖なるものとされるものには受動的にしか向き合えない。これが吉と出るか凶と出るかは、自分たちが投げ込まれたこの文化といかに向き合っていくかという、ぼくらの自由の使い方次第である。

(2019年4月7日に書いたものに加筆)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。