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国際政治経済学講義ノート 7(グローバリゼーションとは)

これでリベラリズム、リアリズム、マルキシズムという国際政治経済学の三つの主要アプローチが出揃いました。前回で第二部が終了して、ここから第三部です。

第三部では、この三つの主要アプローチをみなさんに応用してもらいます。つまり、グローバリゼーションと呼ばれる現象は、それぞれのアプローチの視点からはどう見えるかということを考えてもらいます。通例はこれをグループ・プレゼンテーションでやってもらっていましたが、今年はこれがむずかしそうです。

さらに、当初の予定ではこのあと第四部が予定されていて、トランプ現象やブレグジット(英国のEU離脱)などを検討する予定だったのですが、そうするともう一つ英文の論文をみなさんに読んでもらわないとなりません。しかし、さすがにもう読ませすぎたので、これ以上課題を増やすのは避けようと思います。講義を書き下す私も、そろそろ体力の限界です。

ということで、残念ながら第四部は別の機会に譲ります。その代わりに、今回はこの第三部をレポートの課題としたいと思います。みなさんにとっては学ぶことが一つ減って損になるのですが、その分今まで学んだ主要アプローチについての理解を深めてもらうことになります。知識というのは自分で使ってみてはじめてよく理解され、自分自身のものになる。そういう面がありますから、損なばかりでもないと思います。

レポート課題はつぎのようなものです。

リベラル、リアリズム、またはマルキシズムのうち一つを選び、その理論的アプローチからは経済的グローバリゼーションがどのように見えるかを書きなさい。 その際、次の質問に対する回答を含めなさい。

1.グローバリゼーションの主な原因は何ですか? それは政治的なものですか。それとも経済的ですか?
2.グローバリゼーションは「国家」と「市場」の関係にどのような影響を与えると考えられますか?
3.グローバリゼーションは世界の貧困や不平等を減らすことができますか?

ということで、今回が最後の講義になります。最終講義ではグローバリゼーションとは何かということについての若干の説明と、レポートを書く際にどの辺に着目すればよいかというスタディーガイドのようなものになります。

ところでグローバリゼーションって何?

「グローバリゼーション」というのは1990年代のバズワードで、やたらともてはやされました。冷戦が終結した今、世界中の市場が統合される時代がそこまでやってきていて、国家なんてのはもうなくなってしまうなどということが本気で取りざたされたりしました。多くの流行と同様に、この流行も終わってみると大山鳴動して鼠一匹の感がなくもないです。

今日ではグローバリゼーションというのは論争のタネというよりは、もう常識の一部になってしまっていて、誰もあえて問おうとしません。それがあるという前提で話が進みます。グローバル教育の必要を唱える教育官僚もしかり、グローバリズム反対を唱えるデモ隊もしかりです。しかし、このグローバリゼーションというものが一体何であるのかと問われて、明確な答えを返せる人は多くありません。

グローバリゼーションにはさまざまな側面があるとされます。政治的グローバリゼーション、経済的グローバリゼーション、文化的グローバリゼーション、果ては環境問題のグローバル化、軍事問題のグローバル化なんていうものも取りざたされます。

これらの現象は互いに関連しているのですが、この講座で問題になるのは経済的グローバリゼーションです。それはいったい何を意味するのでしょうか。

私が作ったものでヘタクソなものなんですが、以下の二つの図を比べてみてください。

グラフィックス1


グラフィックス2

上の図がグローバリゼーションの進展する以前、つまり第二講でお話したブレトンウッズ時代の国際経済のイメージです。下の図がグローバリゼーション時代の国際経済です。

思い出してほしいですが、ブレトンウッズ体制においては、それぞれの主権国家が自律性を認められる余地があった。ですから、国民経済と国際経済のあいだには緩衝地帯があった。国際経済の変動が直接国民経済に影響を与えないように、ワンクッション置かれていたんですね。

たとえば、日本やフランスのような国が競争力のない自国の農業を守りたいと思えば、そうする余地があった。農産品というものが自由貿易交渉からは外されていたんですね。また、為替レートを操作して、自国の輸出競争力とか購買力を調整することも、ある程度は許された。

ですから、図に見られるように互いには重ならない国民経済AとBが、貿易と為替レートを介して繋がっているようなイメージになります。各国政府はこの貿易や為替レートの管理規制を通じて、国内経済を保護することができました。

グローバリゼーションの時代は、この貿易や為替レートの管理統制権が国際貿易レジーム、国際通貨レジームなどに移されて、主権国家の管轄から外れてくる時代です。そうなると国際経済から国内経済を切り離すことがむずかしくなる。国民経済AとBは互いに自立した二つの市場ではなく、文字通り混ざり合っていく。最後には一つの市場になっていく(本当は重なった部分の円周の切片を点線にした図にしたかったんですが、自分のワープロソフトではできませんでした)。

市場においては国境というものが意味を失っていく一方で、市場の規制者としての国家はまだ国境の中に閉じ込められています。第一講でお話したとおり、国家というのは領土と分かちがたく結びついていて、国境というものを無視できない存在なんです。

そうなるとますます統合していくグローバル市場には複数の規制者がいる。この複数の規制者がバラバラな政策をとっていたのでは、一方の政策の効果を他方の政策が相殺したりすることになる。ですから国家間の政策調整が必要になってくる。だけども、覇権国の力が衰退した今日ではその調整がますます困難になりつつある。そういうお話をしましたね。

自国の政策目標の達成が他国の政策のあり方にも依存する。こういう状態を「相互依存」と術語で呼びます。経済的グローバリゼーションとは、この相互依存の広がり(地球規模で)や深み(貿易のみならず一国のマクロ経済運営のレベルまで)において今までにない規模で強まることである。そのように理解しておきましょう。

1.グローバリゼーションの動因

さて、レポート課題の第一の問いは、グローバリゼーションを推進する力は何かというものです。それは政治的なものなのか。それとも経済的なものなのか。

よく指摘されるのは技術革新です。通信や運輸の技術が飛躍的に向上して、ヒト、モノ、カネ、情報などの移動に必要とされる時間が節約できるようになった。国境など簡単に越えてしまうことができるようになった。人類はいわゆる「距離の暴力」からの解放に一歩近づいたともいえるかもしれません。

しかし、技術の進歩は必要条件かもしれませんが、十分条件ではありません。誰がどのような理由でそのような技術をグローバリゼーションの促進のために用いようと思ったのか、そもそもなぜそんな技術が追求されたのかという問いに答えないかぎり、われわれはグローバリゼーションの動因を分析したとは言えません。

このような問いに答えるために理論的アプローチが必要になります。まずリベラリズムについて考えてみましょう。リベラルは市場を自生的なものと見做しました。具体的には合理主体としての個人や法人が自らの利益を追求しようという自然な衝動に従って行動する。それが市場を生む。これがリベラルの市場観でした。

実際に、技術革新をグローバリゼーションの主要な動因とするのは主にリベラルです。技術革新というものは政治的には中立に見えます。市場での利益追求のなかで、より大きな利益を生むような技術が求められる。そして、新しい技術がグローバリゼーションを加速させていく。技術革新論というのは、グローバル市場というものもやはり自生的(国家という外生的なものの力を借りないという意味で)に生じてくるというリベラルの立場と親和性が高いんですね。

それでは、リアリズムはどうでしょう。リアリストは市場が自生的であるとは考えませんでした。それは権力によって創られ維持される。具体的には競争力のある産業を有する大国、つまり覇権国がないと、グローバル市場というのは維持されない。これがリアリストの見解です。ですから、技術革新自体は国家の必要に応じて、促進されたり阻害されたりするということになります。

マルキシズムもはやはりグローバル市場の創設維持には権力が絡んでいると見ました。しかし、それは国家ではありません。国家の後ろには社会階級という真の主体が隠れています。かつて植民地を争った各国の資本家階級は、今日ではコスモポリタンになって国籍を越えた一つのグローバルな階級になりつつある。加えて、現代においては所有と経営とが分離されたので、経営者というのが一つの階級として登場してきた。このグローバルな経営者階級がナショナルな資本家階級に変って、世界経済を牛耳り始めている。そんな見方が一部のマルクス主義者によってとなえられ始めています。

つまり、マルクス主義者にとっては、グローバリゼーションを促進するような技術革新を行なうのもまた、そうしたグローバルな資本化・経営者階級です。彼らの利益を促進するためにそうするわけです。

そうなると、各アプローチがグローバリゼーションの動因として重視するのは、政治的なものか、経済的なものか。第一講の講義を思い出しながら考えて見てください。

2.グローバリゼーションにおける国家と市場

長期の歴史的視点で見れば、グローバリゼーションは国家と市場の関係の変容といえます。第一講でお話したように、国家と市場というのは互いに助け合って発展してきました。市場は封建社会の桎梏を打破するのに国家の力を必要としました。近代国家は市場が生み出す富を必要としました。国家と市場の共存というのが国民経済という形で結実しました。

しかし、成長した市場にとっては、この国民経済という枠組みが今度は桎梏になってきました。市場は国家の規制から逃れようとするようになっている。言ってみれば、グローバリゼーションというのは市場が国家という鎖から己を解き放とうとする運動であるとも考えられます。

しかし、この点に関して、リベラル、リアリスト、マルキシストの見解はどのようなものでしょう。まずリベラルです。リベラルにとっては国家は必要悪でした。そしてまた、国民国家というものは進歩の歴史のひとつの段階にすぎないものであるという見解も有していました。であるから、国民国家もいつかは過去のものになる。

そうした視点から見ると、市場のグローバル化というのは自然なプロセスです。「自然な」というのは、人間の理性が目ざめていくにつれて当然向かうべき方向であるという意味です。しかし、リベラルは同時に国家のような強制装置の必要も認めていました。非合理なのはグローバルな市場にナショナルな利害をもって介入しようとする国家の方です。この国家を合理化しないとならない。そうなると行きつく先は一つの政府をもつ世界国家、それが無理であれば、経済政策に関する主権をプールするグローバルな経済管理体制(EUみたいなものを想像してみてください)のようなものですね。

リアリズムはそうは考えないでしょう。リアリストは世界国家や世界統治機構などというものは非現実的であるとして斥けます。人類には必ずアナーキーな領域が残る。であるから、国家間同士の抗争もまた必然である。グローバリゼーションというのもこの国家間抗争の一つの表現であり、覇権国の国益の追求の産物である。であるから、リアリストはグローバリゼーションを市場の国家からの解放とは見なさないでしょう。それはやはり経済分野における国家の権力闘争の一形態にすぎません。

マルキシズムを見てみましょう。マルキシズムもリアリストのリベラル批判を共有してますね。ただ、権力を行使する主体を国家ではなく社会階級と見做すのがマルキシズムの特徴です。ですから、グローバリゼーション以前から、国際経済はやはり階級対立の場です。グローバリゼーションで変わったのは、グローバル企業の経営者という新しい支配階級が登場したという点でしょう。

とすると、国家と市場の関係について、マルキシズムはグローバリゼーションによる影響をどう評価するでしょう。マルキシズムは初めから市場の優位を認めています。市場が国家に束縛されていたとは考えないわけです。そうではなくて資本家階級が国家に自分たちの市場を保護させていた。

しかし、この国家がブレトンウッズ体制において労働者階級の利害を保護し始めた。国家がそのようなことをするのも市場経済を守るためであったのですが、一部の資本家・経営者は国家の介入が行き過ぎていると感じ始めた。それで国家の規制を嫌って、その手の及ばない地へ資本を移しつつある。これがグローバリゼーションの正体である。マルキシストはそのように考えるのではないでしょうか。

3.グローバルな貧困と格差

最後の問いは、グローバリゼーションは世界の貧困や格差問題にとってどのような影響があるのかという点です。この点に関しても、三つの主要アプローチは互いに相容れないような答えを返します。

リベラリズムにとっては、グローバリゼーションは基本的によいものです。今日ではその弊害を認めるリベラルも増えていますが、グローバリゼーションそのものを否定する人は少ないです。なぜかと言えば、グローバリゼーションによって世界全体の生産量が増大するということは理論的に正しいはずである。問題は生産された富の分配の方ですが、パイが大きくなれば貧しい者へもまた利益が均霑しやすくなる。

実際に、戦後のリベラルな国際経済体制下で貧困率を下げた国(多くはアジア・太平洋諸国)は自由貿易によってそうしました。逆に、輸入代替という政策によって自給自足的な経済を追求した国では経済成長率が停滞し、債務危機などを経験する羽目に陥ったところが多い(ラテンアメリカやアフリカなどに多い)。ですから、リベラルはグローバリゼーションを貧困や格差問題の原因よりも解決策として見がちです。

リアリズムにとっては逆です。グローバリゼーションは覇権国の国益追求ですから、弱小国が黙って従っていれば、富は覇権国に吸い取られてしまいます。そうなれば貧困や格差の問題は拡大します。日本やアジア・太平洋諸国の経済的成長の真の原因は自由貿易ではない。それは国家による市場への戦略的な介入によって可能になったのであり、自由市場に任せておいたのであれば、強国においては富は増したかもしれませんが、弱小国の貧困や格差は拡大したはずである。これがおそらくリアリズムの見解でしょう。

マルキシズムも同様なリベラル批判を展開しますが、またしても主体は国家ではありません。グローバルな資本家・経営者階級です。グローバリゼーションは、ブレトンウッズ体制で結ばれた新しい「社会契約」をこの階級が反故にしたことを意味する。今や資本は税率が低く、労働規制や環境規制が緩い国、労働者階級の要求を圧殺することが容易な国を求めて先進国から流出している。

ですから、一部の途上国に豊かな有産階級、中産階級が生まれつつある一方で、先進国においてもまた貧困や格差が拡大している。世界全体としては、貧困や格差の問題は解決してない。むしろグローバリゼーション自体が貧困や格差の上に成り立ち、また貧困や格差を再生産している。やはりマルキシズムもグローバリゼーションが貧困や格差の是正に資するとは考えないのではないでしょうか。

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以上がリベラリズム、リアリズム、マルキシズムから見たグローバリゼーションです。同じ物を見ていても、どんな視点から見るかによってまるで違ったものを見ているように見える。第三講での話を実感していただけたんではないでしょうか。

これをもって私の講義はお終いです。あとはみなさんが講義から得られた知識を応用して、自分の言葉にしてみてください。もう一度リベラリズム、リアリズム、マルキシズムのノートを見返してみて、レポートを仕上げてみてください。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。