[考察]白馬の王子様は迎えにくるのか
少女漫画でお馴染みの白馬の王子様、抽象化を広げると陰謀論や聖書、弥勒思想にも繋がると思うのだ。ここにあるキーワードは「いつか」なのだが、この「いつか」は果たしていつなのだろうか、あるいはやってくるのか、だ。
少女たちは毎晩イメトレしてるだろうし、陰謀論者もいつか善良な宇宙人が地球を救いにくると思っている。神を信じていればいつか楽園に住むことになると信じるエホバの信者、遠い未来に人類を救う弥勒が降臨すると手を合わせる仏教徒。
おそらくここにあるのは「いつか救われる」だと思うのだが、意図=結果からいうと「救われない今」が続きそうな気がするのだ。一方そこには希望もあり、ややもすれば叶いそうな気配もある。
例えば今コロナ禍なわけで、これもいつかは終わると思ってるわけだが思いのほか長引いてもいる。もしかしたら終わらないインフルエンザのような扱いになるのかもしれない。
いや、この終わるというのがそもそも通過点というか、終わると始まるで一対なとなってぐるぐるまわるもので、例えばある細菌を根絶したとしても別の何かが生まれるものだ。生まれて死ぬという始まりと終わりは輪廻となって続く。秒が分に、分が時間に格納されるように、輪廻が終わってもまたひとつ上の階層に格納される。真の始まりも真の終わりも実のところない。
なんでその「いつか」がこんなに気になるのかといえば、私の体の不調もまた同じ構造をしているからだ。今は痛い、でもいつか治るだろうと信じている。もし彼らの信じる未来が来ないとなると、私の体の痛みも続いてしまう。それは困る。でも私のロジックではそうなってしまう。その未来が来ると思えないのに、来ればいいのにとも思う。自分のために。
この問いを友人2人に投げてみた。
答えは「そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。」だった。
私は泣きそうになるくらい納得した。そうだった。そうなのだ。なぜ私は今ではない可能性の未来に固執していたのか。そこには可能性があるだけだったじゃないか。可能性は可能性のままにしておけば良いのだ。
私の体も治るかもしれないし、治らないかもしれない。それでいいじゃないか。
それで、よかったのだ。
王子様は来るかもしれないし来ないかもしれない。地球は救われるかもしれないし救われないかもしれない。そもそもとっくに救われていたかもしれない。私の意識に救われないと言う意識があっただけだ。
今の私に確実なのは、今、体が痛い。それだけなのだ。
痛いのは嫌だなぁと思っている。それだけなのだ。
たった、それだけのことだった。
ただ、それだけのことだと思うのに、ずいぶん時間がかかってしまったわ。
それでもそれは、私の中のいろんな意識を巻き込みながらストンと腑に落ちた。
あまりに呆気なく、
あまりに当たり前に。
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