見出し画像

開会式でのゲーム音楽使用について「オタクはチョロい」で片付ける前に聞いてほしいこと

オリンピック開会式でゲーム音楽が使われた件で僕もちょっとだけ書いておく。当日の自分のつぶやきへの補足と、「我ながらチョロい」と書いてしまったことへの反省として。


ツイートでも書いたけど、ファミコンブームのころとか、ゲームセンターが「不良のたまり場」と呼ばれていたころとか、あのころのゲームって今とは比べものにならないくらい、あらゆる表現物の中でもめちゃくちゃ下に見られてたんですよ。
このへんの感覚は、ゲームキャストのトシさんとか、元カプコン藤田さんのエントリとかを読んでもらえると多少は伝わるんじゃないかと。僕も過去、ゲーム好きというだけで肩身の狭い思いをした経験が幾度もある。


どれだけゲームのおかげで救われたとしても、オラタン仲間と作った思い出がどれだけ楽しいものであっても(僕の「てっけん」はオラタンの大会用ネームが元)、それを堂々と表に出せない空気がまだあのころはあった。
ただの一プレイヤーでしかない僕ですらそうなので、開発者側が感じていた抑圧はきっと比べものにならなかったんじゃないかと思うんですよ(もちろん、それでもなおあの開会式を快く思わない開発者がいるのも分かる)。

で、そのあたりを踏まえて開会式を見たとき、僕も素直に五輪を楽しむ気持ちは正直なかったんだけど、それでもやっぱり「ここまで来たんだ」という感動がふつふつと沸き上がってきてしまったんですよね。
誤解してほしくないのは、これって「オリンピックで流れたから嬉しかった」とはちょっと違うと思うんですよ……どう説明したらいいんだこれ。いい例えがパッと浮かばないんだけど、仮にオリンピックと同じくらいの影響力があって、なおかつ誰もが歓迎できるような場でゲーム音楽が使われていたら、もっと素直に今の状況を喜べたんだろうなと思います。そこは本当に残念としか言いようがない。

何が言いたいかというと、今の議論を見ていると、「今の五輪に賛同するかどうか」の部分ばかりフォーカスされてしまっていて、かつてのそういう抑圧や、抑圧との戦いみたいなところがちょいちょい置き去りにされてしまっているように見えたんですよね。
僕なんかはまあチョロいと思われても全然いいんですけど、ゲームを今の地位まで引き上げるために尽力してきてくれた人たちまで「チョロい」の一言でくくられてしまっているのはつらい。思えば僕があれで感動したのは、「オリンピックでゲーム音楽が流れたから」ではなく、今の状況を築き上げてくれた開発者への感謝が大きかったのかもしれない。

もちろん、全部踏まえたうえで「それでもあんなもんで喜んでるんじゃねえ」というのは否定しないし、むしろ尊重すべきだと思っています。あと香川県のように、今なおゲームを虐げる動きがあることも考えれば、この程度で満足してはいけないというのもその通りでしょう。僕もなんだかんだで感動はしたけど、これがゴールではないぞというのは強く思っています。

ただ少なくとも、喜んでいる人の間にもかなりのグラデーションがあり、その背景には、今では想像もつかないような大峡谷時代があったということも分かってほしいし、それを全部ひっくるめて「ちょろい」の一言で切り捨てることだけはしないでほしい(これは「我ながらチョロいと思うけど」と書いてしまった自分としても反省しているところ)。
恐らくあの開会式を喜んでいる人の中にも、オリンピックへの不満を抱えている人は大勢いるはずで、そこを単に「あれを喜んでいたかどうか」の1点だけで白と黒に分けてしまうのは、電ファミの平さんも指摘しているように、さらなる分断を生むことにつながりかねないと感じるんですよね。


――とまあ、最初Twitterにでも書こうと思ったけど長くなりそうだったのでこっちに書き散らかした次第でした。
あとそれはそれとして、もろもろの感慨を抜きにすれば、あの開会式でのゲーム音楽の使われ方は確かに「雑だったな」というのが僕の感想であることも付け加えておきます(笑)。



赤ちゃんのおむつ代にします。