スピンオフ 維羅
零れ落ちる熱すらも落とさぬように、掬い上げるように、抱き止めておきたい。
いつも、そう思っていた。
彼女を抱く時は、より一層壊さぬように、細心の注意を払った。
けれど、その注意深さから、彼女はするりと抜け出して、遠く離れていったのだ。
いや、きっと、俺が逃してしまったのだ。
―――――俺の家は、祖父も父親も叔父も3つ上のいとこも警察官で、長男の俺だってそうなるべきだと言われ続けてきた。
父親が言うには、高卒から警察官になった方が、4年早く就職できるという事から、高卒で警察官になるべきだという意見で、いとこも高校卒業後すぐに警察官採用試験を受け、10か月の警察官学校へと通うことになった。
けれど、その訓練が凄まじく過酷だという愚痴を高校2年生の時に聞いた俺は、父親に懇願し、無利子の奨学金を取れる順位を条件として大学に入学させてもらうことになった。
恋愛も普通にしたかったし、大学は地元から離れ、少し都会に行ってみることにした。
また、無利子の奨学金の枠を取れなければならなかったため、偏差値は自分の学力より少し低めの、かと言って私立に入ることを許してくれる親でもないので、公立の大学へと進んだ。
高校の頃は、周囲の目もあって、自分の好きなように振る舞うことが許されなかったが、大学デビューというやつか、普段付き合わないような(今後警察官になった自分のことを嫌いそうな)タイプの友人を何人か作り、そのグループの中で過ごすようになった。
悪い遊びに誘われないこともなかったが、どうせ地元に戻るのだし、嫌われることが怖いとも思わなかったので、そこは素直に断った。
よく漫画などで描かれている不良という奴は、付き合いを断ると疎外したり、暴力を振るってくるイメージだったが、実際はそんなこともなく、大学で孤立するようなこともなかった。
正直に言って、大学に行って正解だと思った。
高校の時以上に、沢山の人と関わることが出来たし、色々な価値観に触れ合うことも出来た。
そして、何より、心理学のゼミで、彼女に会うことが出来た。
見た瞬間に心を奪われた。
どこか陰のある、ミステリアスな女性だった。
彼女に近づきたくて、ディベートで同じ班になり、名前を知った。
―――橘 圭子。
平凡な名前だけど、彼女にピッタリの名前だと思った。
反面、俺はキラキラネーム(昔のDQNネーム)で、自己紹介の時はいつも恥ずかしかったのだが、彼女は俺の方を見ずに、名前の漢字を見つめながら、「綺麗ですね」と呟いた。
多分、独り言だったのだと思う。
その後、俺の方を向いたりしなかったから。
でも、その一言で、俺は確信した。
俺は、彼女に出会うために、この学校に来たんだ、と。
それからの俺は、彼女が所属しているサークルに所属し、飲み会で彼女の隣の席をゲットし、少しずつ、少しずつ彼女との距離を縮めた。
どうすればいいのか分からなかった。
いつもニコニコとして、なんでも受け入れてくれそうな女の子であれば、その場ですぐに告白しても問題なさそうだが、彼女にそうしてしまうと、二度と近寄ってくれなくなりそうで怖かった。
何度目かの飲み会の帰り道、俺が彼女が欲しいと愚痴を言うと「私の前で言うことじゃないんじゃない?」と橘を不機嫌にさせた。
「お前は、彼氏欲しくないの?」
俺がそう言った後の彼女の表情は忘れられない。
いつもどこか憂いていて、不機嫌そうで、自分の気に入ったことがないと笑顔にならない彼女が、本当に恥ずかしさで混乱している様子が目で見て分かった。
お酒のせいで赤面している訳ではなかった。
彼女にとって、一番恥ずかしい急所だったのだろう。
狼狽えて口元を隠す彼女を見て、俺は彼女が逃げないようにゆっくりと近づいた。
「私、誰とも…付き合ったことない。」
「じゃあ、俺で良いじゃん。」
俺がそう言うと、赤面した所為で潤んだ瞳がこっちを向いた。
彼女の口元を隠している手を、優しく掴んだ。
それは、思ってる以上に柔らかくて、強く掴んだら壊れてしまいそうで、過去に付き合った女たちは、こんなに華奢だったろうかと疑問を感じるほどだった。
「初めてだし、その、良いことないよ…。」
自信なく俯く橘の左頬に触れた。
初めてだというのに、彼女はこの後どうなるか分かっていた。
微かに顎を持ち上げ、目を伏せて、黙って俺を受け入れる。
俺は、本当に馬鹿だった。
これで幸せが手に入ったと思っていた。
その最高に幸せな日、父親が死んだ。
人生は、幸せと不幸を足すと0になるように出来上がっていると誰かが言っていた。
俺は、大学に連絡して弔辞休暇を貰い、通夜と葬儀に出た。
今までは温厚だった母は、まるで父の怨霊でも憑りついたかのように俺への干渉が強くなり、月に一回は俺の寮をチェックするようになった。
勉学を怠っている素振りを見せれば、退学させるとも言って来た。
だから、彼女と付き合っていることを母に悟らせる訳には行かなかった。
幸い橘は理解のある女性で、世間一般の女性のように頻繁に会いたいと騒ぐ女ではなかったからありがたかった。
寧ろ、俺の母親の情緒が不安定なことを愚痴ると、彼女の母親も彼女を生む前に死産を経験して、そこから彼女に対して過干渉なことがあり、息が詰まることがあると愚痴を聞かせてくれた。
同じ痛みを共有しているようで嬉しかった。
俺のことを最も理解してくれているようで幸せだった。
だが、俺が地元に戻ると言うと、彼女は理解してはくれなかった。
「私のことが大事なら、こっちで就職してよ。」
今までそんな我儘をいう女ではなかったのに。
俺の母親がどれだけ精神的におかしいかも知っているのに。
「やっぱり育ててもらった恩もあるし、地元にはいったん戻るよ。お前こそ、どこでも出来る仕事じゃん。付いてくる気がないなら、それまでだったってことだろ?」
腹立たしさから、そう言い放った。
会いたい、と言われても、お前がこっちに来るなら、と返した。
けれど、橘が俺に会いに来ることはなかった。
悔しかった。
結局、俺だけが好きだったんだと思った。
正直、警察学校での半年は、彼女への恨みで乗り切った部分もあると思う。
その後、俺は地元で就職し、彼女とのことが思い出になりつつあった時、衝撃が走った。
幻でも見ているようで。
夢の中にでも入り込んだようで。
あの頃よりもさらに綺麗になっている彼女がそこには居た。
逃しちゃ駄目だと思った。
やってはいけないが、GPSを取り付け、彼女の地図アプリから自宅の情報も見た。
そんなことをしている時、俺はやっぱり母さんの子だな、とも思った。
そうして、向かった先に、男に抱きしめられている橘を見つけた。
まるで、悲劇のヒロインかのように男の腕に抱かれ、俺が諸悪の根源かのように腕を振りかぶって打つ。
俺は、純粋に橘のことが好きだっただけなのに、どうしてこんな扱いを受けなければならないんだ?
俺が怒り任せに彼女に八つ当たりしようとすると、彼女はとても冷静に俺のことを見つめてきた。
あぁ、そう言えば、偶にこんな風に俯瞰的に見つめるところがあったな、と思い出す。
夢中にさせて、きちんと自分にハマっているか確認するような眼差し。
決して自分は、お前のモノではないぞと言い聞かせる視線。
大人になった今なら分かる。
彼女は、俺のことなど好きではなかった。
俺は、次の犠牲者に注意だけすると、その場を後にした。
月の光に照らされてマンションを後にすると、俺はようやくマトモな道に戻ってきたんじゃないかと思う。
花束をゴミ捨て場に投げ捨てる。
けれど、その不格好さがあまりにも、俺そのもので、マトモな道で生きるには、もう少し休憩が必要なようだ。
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