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サイドバイサイド

一 
 何でも出来る未山君は恋人である詩織の家に通い、家事も熟しながら彼女の一人娘である美々の面倒も見ています。優しい性格で、近所の人たちにも慕われている。死者との交流で、原因不明の不調を解消する助言を行ったりするのですから信頼を得て当然。また彼自身、相手の為に尽くす事を厭わない、どころかそれが自分のなすべき事と受け入れている節も窺えます。そんな未山君が何故、莉子から離れたのか。しかもかなり酷い形で。

 二
 この点について劇中で詳しくは語られませんが、例えば①草鹿の疲弊し切った様子や②莉子が未山君の部屋に迎えられた後、未山君が用意してくれた絵の具の入った壺を彼に向かって蹴飛ばす行動を取った等の事実から推測するに莉子が相手に依存する性格で、しかもその要求に限度がない。また性格的に不安を覚えやすく、突発的行動も躊躇わずに実行できる。相手を困らせる行動も常に見守っていなければならない関係を強いるため。だから対面する相手が精神的に潰れてしまう。あの未山君もその例外ではなかった程に。だからこそ彼は「逃げた」。


 かかる推測に基づけば、未山君と莉子の関係は『ひとりぼっちじゃない』のススメと宮子の関係にどこか似ています。何でも受け入れる者と、全てを欲する者との底なし沼の様な関係性の行き着く先を『ひとりぼっちじゃない』で拝見した者としては、未山君の行動はある意味で妥当と評価できる。下手すれば刃傷沙汰でどちらも死んでいたかもしれませんから。けれど相手の為に尽くす事を未山君が信条としていたのなら、莉子から「逃げた」事実は彼自身を毀損するものです。それはアイデンティティの喪失と言っていいほどの深い傷となったのはないでしょうか。
 そう考えれば未山君が地元から遠く離れる様に歩いて、歩いていったのも仕方ない。本編の冒頭から現れるのに、未山君からは現実感が殆ど感じないのも無理がない話だと想像できます。


 そんな状態の未山君は、けれど詩織に出会えた。元々の明るい性格に加えて一人の母としての強さも兼ね備えた詩織は地に足を付けて日々を生きている。相手を頼る事はあっても、依存まではいかない。そんな一面があったから未山君はかつてしていたのと同じく彼女の為に尽くす行動を取れたし、その幸せをまた感じられるようになった。そんな未山君の存在で詩織も安心して生活できる。この二人の噛み合い方は最高で、美々を加えた三人の時間は幸せそのものだったと思います。


 けれどそんな生活もまた未山君の優しさで一変する。草鹿、そして莉子との再会です。莉子はあの頃から変わっていません。だからまた未山君を閉じ込めようとした。でもあの頃と違ったのは、未山君には詩織がいた事。そしてまた詩織が「四人での共同生活」という大胆な提案をしたことで未山君と莉子はあの頃みたいな袋小路に陥らずにすんだ。これが良くも悪くも大きな意味を持った選択になった。
 この提案について詩織は多くを語りません。孤島に住まう様な二人の状態を大人として心配したのかもしれないし、あるいは大好きな未山君を取られたくない一心で必死に口にした事だったのかもしれない。いずれにしてもこの場面を経た後の詩織は気丈でありつつも優しく、日向のような温かさに包まれていて本当に素敵。彼女を演じた市川実日子さんを好きになる見所の一つです。


 ただ、最初はやはり奇妙な共同生活のあちこちに緊張感が走ります。その原因は間違いなく莉子と詩織の水の合わなさにあるのですが、ここで幼い美々が繋ぎ役として大活躍します。未山君、詩織、そして莉子の三者関係を緩やかに繋いで円滑にしていくのがその活躍の主なものとなりますが、それ以上の働きとして特筆すべきは莉子の純粋な内面を美々を通じて知れるという点です。
 真っ白な物しか口にしない莉子は、真っ白なキャンバスに向かってずっと抱き続けている純粋な想いを描いていきます。そこに描かれる断片的なイメージを、残念ながら観客の方では読み解けない。なのに美々は一発で言い当てる。それに驚く莉子は、けれどその重い心の扉を開け始めるのです。ずっと部屋に閉じこもっていたのに未山君が夕飯の支度を始める場面で自室の扉の外に立っていたり、美々との交流を日に日に深めたりとどんどんアクティブになっていく。ぼそぼそとした暗い話し方は変わらずでも話される言葉には莉子という人柄の一端を見つけられるし、相手を思いやる子なんだと気付ける。そんな姿からは、かつて未山君が思わず逃げてしまった程の苦しみを相手に与えた人物とは微塵も感じられな思えない。この辺りの違いも、未山君と二人っきりではないという状況の有無が大きく影響したのだと私は思います。


 自分を殺してでも他人のために尽くせる未山君、そんな未山君と接しても頼りっきりにならない現実的な詩織さん。一方で内面の純粋さゆえに現実的な問題を起こしがちな莉子をある意味一番理解できた存在である幼き美々。この四人の関係性がどんどんと深くなっていく過程は本作でも最も美しく、またワクワクする躍動感にも満ちますが、より興味深いのは「未山君と莉子」という二人の関係が改めてクローズアップされる展開です。
 ある出来事をきっかけに未山君から再び莉子に歩み寄るのですが、ここで生まれる物語のフックが最後の場面で結実する時、私は『ひとりぼっちじゃない』のススメと宮子が決して迎える事が出来なかった幻を観た気分になりました。共通点が多い二作なのに、何故こんな違いが生まれるのか。他者との関係性などの理由を挙げられはしますが、そんな言葉より説得力があったのは未山君の部屋を借りたススメをバックショットで捉えた一場面。人の無意識と意識の関係性を巧みに切り取ったかの様な構図の中で最も光輝いている引き戸はたった一箇所、開かれた状態にある。そこから広がる世界は希望そのものに見えて仕方なかった。化け物みたいな判断、行動をさせかねない無意識下にあるものを否定せずに只々共にあること。その大切さをあのススメが動かずにじっと座って教えてくれている。そう見えました。
 こうして私は『サイドバイサイド』を一人の人間の、特に内面における脱皮ないしは蛹の羽化に似た変態的な成長譚として受け止めたのです。けれどもこの見方に立った時、『サイドバイサイド』のラストについては全く納得できないものとなります。既に観た方なら分かって貰えると思いますが、あのラストは「そうならなくても良かったのでは?」という疑問符に襲われてしまうのです。
 寧ろ、その最後から振り返れば全てがススメが抱く夢の中の話だったと強弁できる一面があるし、あるいは人の優しさは必ず誰かを傷付けるという皮肉を寓話的に描いたと観てもしっくり来ます。


 監督が丁寧に作り込んだ各場面の事実的側面を時系列に追っていくか、または象徴的に強い意味を持った場面をピックアップしてから引きずり出せる関係事実を丁寧に読み込んでいくか。それだけでも『サイドバイサイド』の印象は様変わりする。
 何でそうなるかといえば、理由がごっそり抜き取られているからだと私は思います。小説で言うところのマジックリアリズムの表現がまさにそれで、緻密に作り込まれた場面描写が保持するイメージ量が半端じゃない。それを好き勝手に掬い取って繋ぎ合わせては自分だけの物語を描ける、行間を読むという行為を敢えて説明すればこうなるのではないでしょうか。


 『サイドバイサイド』は、そういう意味でどこまでも遊べる作品です。ストーリーを追えないと思っても坂口健太郎さんを始めとする出演者の姿に所作、自然風景又は流れてくる音楽といった感覚的なものに浸って下さい。そうすれば不思議と気付けるものがスクリーンの向こうから滲み出てくるし、あるいは自身の記憶等が刺激されて思い浮かんでくるものがあると思います。
 先ずはその体験をしてみて下さい。それだけの価値が本作にはある。本作をそう評価して本文の終わりにしたいと思います。

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