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わたしがファンを名乗れなかったこと:共感したがりの社会

わたしには小説や漫画を中心に好きなコンテンツがいくつもある。デルフィニア戦記、守り人、ハイキュー!!等々。
しかし、最近は好きだということをあまり周囲には言わなくなってしまった。

特に隠したいわけではない。
でも、会話の中で「わたしハイキュー!!好きなんだよね」と言ったときに会話がどこへ進むか。

  1. 相手がすでにハイキュー!!が好きな人の場合
    「わかるー!私もハイキュー!!好きなんだよね、好きなキャラとかいる?影山かっこよくない?」
    ……わたしは別にその会話がしたいわけではない。なんというかある作品の好きなところを語るというのは、作品を鑑賞している自分というメタな視点を再認識する作業でもあって、違う、そんなものは見て見ぬふりをさせてくれ、わたしはそれを忘れて没入するのが好きなのだ。

  2. 相手がハイキュー!!を知ってはいるがファンというほどでもない、またはそもそも知らない人の場合
    「へー、聞いたことはあるけど詳しくは知らないなあ/聞いたことないなあ。どんなやつなの?」
    ……今から作品の説明をする流れになってしまった、それも違う。わたしがどう説明したってその作品の面白さを自分が満足する程度に伝えられることなんてないから、本当に気になるなら黙って読んでほしい。理想はわたしの本棚を眺めていた人がいつの間にか何かを手にとってハマってくれているパターンだ。

とか拗らせてるうちに、わたしは自分がファンを名乗ることすら躊躇するようになってしまった。だって、ファンというのは他の人にコンテンツを布教したり、まあ隠れファンのパターンでも他のファンとは作品について熱く語り合いたいと思っているものでしょう?自分はそうじゃない。……いや、家に全巻揃えて何周もしてるし、人格に侵食してきてるといってもいいぐらいには自分にとって大きな存在ではあるはずなんだけれど。

そういう妙な名乗りにくさをファンという言葉に感じながら、わたしは社会学のゼミでファン実践についての発表を聞いていた。こじんまりとした教室で、前方のスライドでは論文が紹介されている。
そこに登場する"コアなファン"は、やはり同人イベントに参加するような人たちばかりだ。

うーん、ところでわたしはどうして「妙な名乗りにくさ」なんてものを感じているのか、単にファンを名乗るのを思い切りよくやめてしまうのではなく?
たぶん、わたしは本心ではファンを名乗りたい面がある。それはそのコンテンツが好きな自分を説明するための言葉が欲しいからだ。
ただ同時に、ファン、つまりあるコンテンツが好きな人の一般像が限定的すぎることによって、自分の気持ちの自分による解釈までが制約されてしまっているような気がする。わたしは典型的なファンみたいにはコンテンツを語ろうとしないから、自分が実はそれほどファンではないように感じさせられて、だから自分はそのコンテンツをそれほど好きなわけではないと思わされてしまっている気がする。
妙だ、わたしはデルフィニア戦記や守り人やハイキュー!!がこんなにも好きなのに。

彼ら――好きなコンテンツは当然のように布教し語り合い、迷わずファンを名乗ることができる(ようにわたしには見える)彼らは、わたしと何が違うのだろうか。

ふと、彼らはとても共感的だ、という説明が浮かんできた。
自分と同じコンテンツが好きな人とコンテンツについて語り合う共有も、自分の好きなコンテンツを他人にも好きになってもらおうとする布教も、ものすごい熱量を持って共感を求めに行っている。コンテンツが好きだという気持ちに共感したいし共感されたいから、好きなコンテンツの好きなところについて積極的に語りあう。目の前の相手の好きに自分も共感できるようになりたいし目の前の相手にも自分の好きに共感するようになってほしいから、相手の好きなコンテンツについては何が好きなのが積極的に聞くし、自分の好きなコンテンツは積極的に布教する。
彼らの共感を求める熱量の大きさに、わたしはついていけていないようだ。

でも、わたしが共感を求めていないわけでは決してない。
自分の本棚に並べておいた好きな小説を友人が手に取っているのに気づき、そわそわしながら横目で見守っていたら、友人は夢中で読んでいてあっという間に中盤まで進んでいたときはとても嬉しい。その友人が読み終えて、小説への愛しさを隠しきれない声で一言「よかった…」と言ってくれて、「いいよね…」とだけ返すときの心の温まり方だって、間違いなく共感と呼べるものだ。
それは自分にとって十分に大きくて、彼らの共感に比べて劣っているわけじゃない。

だから、彼らは激しい共感を求めていて、わたしは穏やかな共感を求めている、というだけことなのだろう。彼らとわたしの求める共感が違うのは、好き度が違うからではなくて、単に彼らとわたしでは共感への志向がそもそも異なるからだ。
彼らを激しいファンと呼び、わたしを穏やかなファンと呼ぶことにするならば、世間一般的なファンのイメージというものは激しいファンに限定されがちだけれども、それはわたしが彼らほど作品を好きではないということではなくて、わたしが穏やかなファンだというだけのことだ。

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