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【余談】病人の纏う美しさについて

不謹慎エピソードトーク

不謹慎な話で大変申し訳ないのだが、世の中には「病人(これも雑な言葉で申し訳ない)しか持ち得ない美」があるなと、病気になって結構本気で感じた。


(おそらく)横溝正史『八つ墓村』より

この考えに至ったきっかけは、たしか横溝正史『八つ墓村』のとあるシーン。主人公が白痴の娘と恋に落ちる場面だったと思う。

主人公はそれまで、娘のことを「知能が足りない」「理解できない」「気の毒だ」と感じていたのだが、危機的状況になっても気持ちが揺らがない(危機的状況だと理解できないので当然と言えば当然)娘に対して、一種の諦念悟っている姿勢、ひいては菩薩のような美しさを感じ取る...みたいなシーンがあった...気がする。たしか。
というかここまで書いておいてアレだが、もしかすると『八つ墓村』ではなく、横溝正史の別の短編だったかもしれない。うろ覚えですみません。

話を戻すが、こういった話は何も知的障がいに限ったことではないと思った。

健康な肉体あってこその物種

ぶっちゃけ命に別状がない自分でさえ、今回の病気やらなんやらで、「今まで抱えていた悩みやコンプレックスは、肉体の健康があってこその物種だったのだなあ。」としみじみ感じた。肉体の健康が揺らぐとライフプランなど立てられないし、将来選べる選択肢も自ずと限定される。そうなるともう、「小さく悟らざる」を得ないというか。学歴コンプ、ルッキズム、自己肯定等々、一般的な価値指標が渦巻く戦場からは離脱せざるを得なくなる。

そういった「雑念から切り離されたな」「静寂に来たな」と感じる一瞬が、ここ最近ときどきあった。で、そういうときは凛と過ごせた。造形的な美しさではなく、「心根が澄む/凪ぐ」という意味での美しさをなんとなく感じた。

この世のものではない美しさ

文学作品で描かれるサナトリウム患者の方(安直だが『風立ちぬ』等)なんかもこのケースだと思う。バセドウ病が美人病と呼ばれるような外的要因(新陳代謝が上がって肌ツヤが良くなり、眼球突出により眼が大きく見える)だけでなく、雑念渦巻く俗世から切り離された美しさが病んでいる人にはある気がしてしまう。

これは社会と切り離されたと念慮すべき現象なのかもしれないし、そもそも生命の危機に晒されている方に対して美がどうだのと第三者が審美する乱暴さといったらない。この点において今回のnoteは本当に不謹慎です。申し訳ありません。

ただ、小さな病気を患った者としては、くよくよ悲しんでいても病状は改善しないし、受け入れるしかないし、悟るしかない。そういう覚悟の美しさが病んでいる人にはあるなと感じたし、あると信じたいと考えた次第です。

おわりに

お後が全くよろしくならないので、今日はここで終わりにしたいと思います。気狂いの文章だと思っていただいて構いません。

どうかどうか健康で。多少の無理をスパイスにしつつ、つらい状況にならない程度に自分を甘やかしつつ。こんな文章を読ませてしまい申し訳ないですが、それでもお読みいただきありがとうございました。
最高coverで無理矢理しめます。

神様どうか神様
僕に優しさがあるなら
もう必要ありません
悪気なんかないのに人を傷つけて
空の青さが残った

Oasis『Don't Look Back in Anger』


「ほ~ん、なかなかよかったですよ。」と思われた酔狂な方は、以下よりサポートいただけましたら幸いです。気が向いたときだけで十分です。ありがとうございます。