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コロナ療養日記

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8月6日、新型コロナウイルスの陽性判定を受けました。体調は毎日、毎時間変わっていき、現に今日も夕食後から体調が悪化しベッドに倒れこんでいました。今は何とか回復し、頭も冴えてきたので今回のことを少しずつ書いてみようと思います。

誰かのためになればとか、役に立てばとか、ということではなく、あくまで私の記録のため。ですが、一応誤情報や誤認識を与えないために改めて私のプロフィールも載せておきます。

・29歳女
・都内在住(36歳男性と同居中)
・基礎疾患なし
・昼は会社員
・夜は医療系専門学校の学生(学校は現在夏休み、3月に国家試験)

【8月3日(火) 「体調悪いかも…」】
7月の臨床実習が終わり、やっと一ヶ月間の夏休みに突入。6月、7月は週4実習、週5会社というハーマイオニー的な謎多忙スケジュールをこなし休みはほぼ0だった。久し振りに訪れた休日だったが、4月から入社する会社(クリニック)の説明会に行ったり、歯医者に行ったり(ずっとやりたいと思っていた矯正の相談)、数時間図書館で勉強したりしていた。
最後の用事を終え、岐路につく中彼氏からLINEが入る。
「体調悪いかも…」。
実は7月末あたりから勤めている会社(私と彼氏は同じ会社)で数名コロナの感染者が出ており、会社で抗原検査を受けたりしていた。そのときは二人とも陰性反応だったため、通常の業務を行っていた。しかし、欠勤者続出の煽りをまともにくらってしまったのが管理者のトップである彼。数日前から長時間の勤務を強いられていた。
取り敢えず水やゼリー、薬など思いつくものを一通り購入し帰宅。以前検査キットが売られていたドラッグストアに立ち寄ってみたがあいにく売り切れで、仕方なくAmazonで翌日届く検査キットを2つ購入した。

【8月4日(水) 濃厚接触者】
前日の夜のうちに東京都の発熱相談センターに連絡してあったため、近くの病院を紹介してもらいPCR検査を受けられるようになった彼。前日から38度以上の熱が続いていた。まあ大方陽性でしょうという自分たちの判断で彼は寝室に隔離。私はリビングのソファ(といっても座椅子のようなもの)にクッションを枕にして寝た。しょっちゅう体調を崩す人なのでリビングで寝るのはもう慣れていた。が、正直毎回寝た気はしない。
夕方頃病院に出た彼を見送り、除菌シート等でドアノブや洗面所などを拭いて回る。マスク、ゴム手袋着用。ああついに我が家にも、と思いつつ、彼が使った食器類をハイター漬けにする。家庭内で簡易的に清潔域と不潔域を作った。

【8月5日(木) 新しい洗濯機】
3日前に壊れた洗濯機が昨日到着したため、溜まっていた洗濯物をひたすら放り込む。因みに洗濯機の取り付けのときはもちろん彼を隔離、洗面所は念入りに除菌済み。3分ほどで設置工事が完了し感動、暑い中ありがとうございました。
前日昼すぎから徐々に疲弊していった私の精神は、夕方彼のもとに届いた「陽性」の連絡でついに崩壊。
看病も疲れたし、洗濯や食器洗いにも気を遣う。何より自分も感染するかも知れないという恐怖。そして私も濃厚接触者になったことで2週間の出勤停止になったことが一番私の精神を蝕んだ。
実習期間は当然満足に働くことができず、収入も安定しなかった。8月はたくさん働いて勉強もして…と、充実した夏休みを送る計画を立てていた。ようやく学費も払い終わったし、ついに歯列矯正を始めようと決意もしていた。それが全て頓挫した。体調の悪い彼に向かってそんな愚痴を吐いてしまった自分にも嫌悪感でいっぱいになった。
夜、相変わらず体調の悪い彼のためにうどんを茹でた。もう食べられないと半分以上残したそれをシンクに流しながら泣いた。もう色々無理だった。自分は何も食べていないのに吐き気がしたし、泣きすぎて頭が痛かった。私の心身を案じた彼が、もう何もしなくていい、洗濯も食事も自分でやるから、と言ってくれたがその言葉が余計に辛かった。彼の体調が悪いときにすら優しくなれない自分が嫌だった。何もできない、何の役にも立たない人間になるのが怖かった。「もうやらなくていい」ではなく、「大丈夫?」や「ありがとう」を言って欲しいだけだったのに。それだけで何でも気持ち良くできるのに。そんなモヤモヤを残しつつ、洗濯と食事くらいはやらせて欲しいと泣いて懇願した。我が家はもう大分壊れていた。
この日からマットレスをリビングに運んで寝るようになった。寝心地だけは改善した。

【8月6日(金) ついに私も】
濃厚接触者になって、私も当然PCR検査を受けることに。前日、Amazonで注文していた検査キットで行った際には陰性判定だったし、自宅でも色々気を付けているし陰性ってことも…なんて楽観的に捉えながら久々の外出準備。
因みに診察を受けたり薬を処方してもらったり、ということができる病院はどこもいっぱいで‟取り敢えず検査だけ受けられる”という病院を紹介してもらった。区の保健所や発熱相談センターが病院の紹介から予約まで全て行ってくれて驚いた。後にも記載するが、今回保健所の方や看護師さんに大変お世話になって泣きそうになる場面がたくさんあった。本当に、本当にありがとうございました。
予約の時間は13時50分。暑い中、15分ほど歩いて病院までたどり着く。建物の中には入れず、案内されたのは地下駐車場へ続く暗い下り坂。そこに何人もの人が並んでいた。問診表を渡され、記入しながら少しずつ前に進む。やっと下り坂から上り坂までたどり着いた頃には汗だくで、久し振りに歩いたからか背中や腰が痛かった(今考えてると発熱していたのかも)。並んでいる人の中には小さな赤ちゃんを抱えたお母さんや、立っているのもやっとなくらい体調の悪そうな人もいて何だか小さな絶望を見た気がした。
鼻の中の粘膜を長い綿棒でぐりっとやるタイプの検査で、自分でやったのも合わせてもう3回もやっているのに今回もちゃんとオエッとなった。帰り道は暑さで意識が朦朧とし、帰宅し廊下で倒れこんだ。なんとかシャワーを浴びると、服も着ずにリビングのマットレスで死ぬように眠った。
夕方病院からの電話で目を覚まし、陽性判定を受けた。そりゃそうか、と、驚きもしなかった。むしろもう一緒に洗濯も食事もできる、風呂の順番も気にしなくて良い(陽性者が後に入り、除菌してから出るのが原則)、などと気が楽になる要素が多かった。この日は私の症状も軽く、彼の熱も下がってきていたため久し振りに一緒に夕飯を食べた。飲み物とか買っておこう、と一緒にネットスーパーのサイトを見たりして楽しかった。保健所からの詳しい指示は翌日になるとのことだったため、この日も一応寝室は分けておいた。

【8月7日(土) 入ってて良かった】
老々介護ならぬ陽々介護となった我が家。気が楽になった、と安心した前日から私の精神状態は一変した。素直に症状を伝えることのできる性格の彼は、やれ熱が下がらない、やれ身体が痛いといつまでも訴え続ける。症状は軽いとはいえ私も頭痛や咽頭痛はあり、食事もままらなかった。それでも生活していれば洗濯物は溜まっていくし(発熱の続く彼は着替えや身体を拭くタオルを何枚も使う)、一丁前に食欲だけはある彼のために食事の準備をしなければならなかった。以前母が持ってきてくれた桃は、彼が2つとも食べた。そういえば私が何か食べたのか、一度も聞いてくれなかったような気がする。具合が悪くて余裕がなかっただけ、と今更言い聞かせる。
Twitterを眺めていたら、「自宅療養期間も入院給付金が出る」という文章が飛び込んできた。慌てて自分の保険内容を確認し、日額5000円の入院給付金が出る保険に入っていることが判明。念のため保険会社の担当のお姉さんにも連絡(夏休み中だったのに丁寧に対応して下さりました、本当にありがとうございます)。領収書等、諸々ちゃんと取っておけば大丈夫ですよ!と言われ一安心。お金の心配は少しだけ拭えることができた。母に勧められるがまま、社会人になったときからちゃんと保険に入っていて良かったと心底感じた。

【8月8日(日) 発熱】
陽性反応が出てからずっと発熱はなかったのにこの日急に熱が出た。37度台だったが、それでも倦怠感や身体の痛みがありベッドで横になっていた。もう部屋を分ける必要がなくなったため、マットレスは寝室に戻していた。それまでリビングにいた彼が寝室を覗きにきたため、「熱出た」と伝えると、彼もすぐに熱を測り始めた。私と同じ体温だったらしく、「同じ」と言われたので「下がって良かったね」と言うと、「薬飲んでるから」と。もう無視をした。いつまでも自分だけが可哀想で、辛くて、庇護を受けていたいんだと、私を心配することより、自分の回復を喜ぶより、とにかくずっと優しくされたいんだ、と溜息が出た。
夜になり、熱も下がったため学校の課題を進めていた。机に向かいながらも、何で私は何度も寝室を覗きに行くのに私が寝ているときは見に来てくれないんだろうとか、何で毎日食事も洗濯もゴミ出しも私がやっているんだろうとか、何でありがとうって言ってくれないんだろうとか、そんな彼への暗澹たる思いが立ち込めていた。
ああもう、もうダメだと、本当に良くない感情に押し潰されそうになった深夜1時、友人にLINEを送った。一分と経たず、「死ぬなよ」と返事をくれた。30分ほど電話し、気持ちが落ち着き安心して眠りに、と思ったが謎の吐き気に襲われ2~3時間ほどしか眠ることができなかった。心身の不安定はまだ続く。

【8月9日(月) 味覚障害】
朝6時、気付いたら寝ている彼の顔を見ながら大きめの独り言を呟いていた。「また一日が始まった」「一日が長い」「しんどい」。もうわざとだった。聞かせようとしていた。普通に「助けて」とかも言っていた。
この日も洗濯機を回し、ゴミを出し、ぼーっと冷蔵庫の中を眺めた。咳が出てずっと喘息のようにヒューヒューしていて苦しい。鼻詰まりのせいなのか頬骨のところが痛い。それでもやらなければいけないことはある。熱が出ている人を目の前に、「何もしない」という選択肢は与えられていない。
まともな食事はほとんどしていなかったが、何となく口の中が苦い気がして歯を磨いた。いつも使っている歯磨き粉が全く違う味になっていた。20年近く使い続けているお気に入りの味だったのに、吐き気がするほど不味かった。これはまずい、と思い冷蔵庫に入っていたスポーツドリンクを飲んだ。冷たさだけを感じた。ついにコロナの代表的症状の一つ、味覚障害が現れた。味見をしても全く味が分からないため、適当にご飯を作った。私は相変わらずまともな食欲がなく食事していなかったため、この日はスイカを食べたがザラザラとした不快な感触だけが口の中に残った。どうせスイカに栄養なんてあるかい、水分補給のつもりで、と2切程食べた。感染前と比べて体重は3キロ落ちていた。

【8月10日(火) 母親】
実家とは車で一時間ほどの距離に住んでいるが、超が付くほどの心配性の母親にもし感染したことを伝えたら絶対に飛んでくると思い、ずっと連絡していなかった。しかし、心も身体もとっくに限界だったため、朝一で母親に電話し私も彼も陽性だったことを伝えた。驚いたり怒ったり悲しんだり、色んな感情を押し殺して「いつでも頼ってね」と言ってくれた。必死で平静を保とうとしているのが分かり、「大丈夫」を繰り返してしまった。一番の疲弊の要因だった彼のことは詳しく伝えなかったが、電話の最後に「〇〇さんのことも心配だと思うけど、自分のことを考えてね」と言われた。電話を切ってしばらく、安心と申し訳なさで涙が止まらなかった。
電話をくれた友人も、会社の人も、母親も、必ず私の心配をしてくれた。濃厚接触者になってからずっと、「私の心配は誰がしてくれるの」とずっと辛い思いをしてきたが、心配をしてくれている人はたくさんいた。どうしても彼との比較をしてしまい、「私の方が症状が軽いから」と辛さを訴えてはいけないような気がしたし、そしてやっぱり一番近くにいる彼に心配して欲しかった。だけどそれは「私はこんなにやってあげているのに」「私はこんなに心配しているのに」「私も万全ではないのに」という、自分ありきのエゴでしかなかった。今は彼も余裕がないだろうし、心配もして欲しいのだろう。私の心配は、私自身と彼以外の周りの人にしてもらえればいい。と、今書きながらそう思った。

【まだこれからも、だけど一旦】
私の自宅療養期間は最短でも16日まで。まだまだ辛く厳しい日々は続く。また症状が悪化するかも知れないという不安もあるけれど、こうやって書き留めていくことで少しずつ気持ちは整理されていくことが分かっただけでも良かった。
今回本当に実感したこと。保健所の職員さんや電話で相談に乗ってくれた看護師さんの優しさが本当に心の支えになった。毎日毎日大勢の人の対応をしているはずなのに、いつでも丁寧に、親切に対応してくれた。引っ越したばかりでかかりつけ医もいないため、体調に不安があると相談できるのは区の保健所だけで、それなら様子を見ていて大丈夫ですよ、とか、また何かあったら連絡してくださいね、と言って頂いて凄く救われた。何度でも言います、本当にありがとうございます。頑張って回復に努めます。
心配してLINEをくれる友人にも感謝してもしきれない。検査に行ったとき、メンタルヘルスの相談窓口も案内してもらったけれど、病気になると身体と共に心も侵されてしまう。正直、結構危ない場面が何度もあったけれど彼氏ではなくその友人の顔が思い浮かんで思いとどまることができた。本当にありがとう。美味しいもの食べに行けるように、早く味覚も取り戻したいよ。
母親も、保険会社のお姉さんも、Twitterで心配して下さった皆さんも、本当にありがとうございます。

体調がこのまま安定していれば明日以降も書いて行こうと思います。質問や聞きたいことがあればコメントください。因みに彼のことを大分悪い感じで書いてますが、心配してくれるときもあるし普段は普通に良い人です。早く治して二人でお酒飲みたいなー。

あとお金の不安はまだまだ拭えていないし、正直収入も激減です。こんなときなので素直に言いますが、もし援助していただける方がいらっしゃいましたらこの記事に課金していただければと思います。宜しくお願い致します。

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