蒔いたり、拾ったり | motoi
9月3日でHIRAMATSUGUMI主催の展示会「日常の事実」が終了。感謝。
展示会前日。私は午前中のうちに搬入を終えた。
その時点での展示会場はというと、恐らく半分ほど決まっているようす。つまり、半分残っている。
…大丈夫かな…お手伝いした方が良いかな…と思うけれど、ジュエリーの仕事が押していたので、家に戻ることにした。
今回のような大きな空間で展示をしたことがないので、完成までにどのくらい時間が必要なのかが分からない。
はたして今日中に搬入が終わるかな?!と本当に心配したけれど、次の日には完璧に仕上がっていて、感動。
人ってすごい。プロってすごい!
精神力、体力、技術力、結束力を感じた。
展示会を見に来てくれた方々や友人と、色んな話しをした。
久しぶりにひとりの時間を堪能しています、という方が何人かいらっしゃった。
作品を通して作り手を感じたり、自分を感じたり。
不思議と、作品の前で自分のお話しをしてくださる方がとても多かった。
それは、展示会場の作品たちが、優しいものだったからかと想像する。
ある方向性の熱意をもって作る作品は、私を見て!私はここにいるよ!と、つい主張が強くなる。
その力強さ故に、もらえるものもある。
今回の作品たちは、日常の中に散りばめられた美しさを拾い上げたような作品が多かった。
私を見て!というよりも、私ずっとここにおってん〜知ってた〜?というような、自然体な作品たち。
だから、心が解け言葉がこぼれるのだと思う。
そのような言葉を聞く時の気持ちは、美しい自然と遭遇した時の気持ちに似ている。
作品を見て周る人々。
佇まい、微笑む顔、見つめる視線、使う言葉等、あらゆる場面でその人を感じる。
悪意のようなものは、人それぞれ持っていたりいなかったりだろうけど、優しさは全ての人が持っている気がする。
真新しいモノを求めていた時期、周りには知っているモノばかりだと、勝手に虚しくなっていたけれど、実はそうでは無かったと頭を打つ事があった。
知ろうとする事・自分を無知だと自覚する事は、結果的に自分を助けてくれる。
知れば知るほど、知ったつもりになって、気付かぬうちに世界が制限される。
虚しさだけは制限無く広がってゆく。
知らないというのは、制限をもたないということだと思う。
そんなことを、作品ひとつひとつを見ながら思い出した。
今月、友人の結婚式に参列するのもあり、暫く島を離れる。
久しぶりの遠出にウキウキしつつも、ここに帰って来ることを既に楽しみにしている自分がいることに気付く。
作業机に向かう時間に比例して、この土地が身体に馴染んできたように、この土地で作品を発表出来たことが、結びつきを更に親密にしてくれた。
自分らしくいる為に、側にいる人に自分らしくいてもらう為に、ひとりで立つことに拘ってきた。
でも、何かもう少し、例えば蒔くような、もしくは拾うような、立つ、というよりも生きる、に近いような、そんな在り方がある気がしている。
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