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「自由」とは何者か 〜現代、そしてこれからと〜

好き勝手にやれることが自由だと思われる昨今、カテゴライズの下言葉が生まれた事により、人によって解釈は違いそう。

それもそのはず、時代や文化、国によってこの「自由」という言葉は常に言葉は変わらず意味だけ微妙に変化し、今に至っています。

そこで歴史や過去の偉人の言葉から、今の時代に相応する「自由」ということを考えてみました。


そもそも自由とは

古代に考えられた「自由」について歴史として、知識として論じる分には意義のあることですが、今の時代と照らし合わせるのは今回は重要ではないでしょう。人が不当に拘束され、奴隷として扱われるのは昨今の日本ではかなり稀な例と言えると思います。

しかしながら人間は歴史上、常に何かしらの外圧と共に文明を築いてきました。民族や地域、戦争、災害、飢饉など、社会という枠組みを形成する上て起こってしまういざこざや、自然とともに暮らしてきたからこその回避しようのない問題も常に介在しています。

さらに平和時でも家族や街、仕事などのしがらみで社会の歯車として機能していると、様々な行動を制限されていると感じていることも一つの要素になっているでしょう。いわゆるストレス、そこからの解放、もしくは脱却を、人は自由と呼ぶのではないでしょうか。

自分で決めたのに

でも待ってください。前者の災害や戦争等の事象は置いておいて、後者の場合はほとんどは自ら決めたことのほうが多いでしょう。そこに留まるのも去るのも、大人になれば容易なはずです。そう、だから子供の頃は大人になりたいと思うのでしょうね。それが子供としての「自由」に見えるから。

そういう意味では極論、前者に対しても同じようなことが言えるかもしれませんね。あくまでも極論なので悪しからず。

大人って自由なの?

さて、大人の皆さんはどうですか?自由を感じていますか?あの頃思い描いていた「自由」はそこにありましたか?
恐らくはこれを読んでる人は、どこかで不自由に感じているのか、もしくは何かを思っている人が多いのではないしょうか。

あなたの人生、あなたで決めたこと。なのにも関わらず、それを不自由と感じる。多分そこで「自由」という言葉の齟齬が生じているのではないでしょうか。僕もその一人です。

家族や他人やコミュニティに責任があるように感じ動き出せず、ストレスを溜め不満を抱える。ホントに嫌ならば、苦しいほど辛いならば、そのようなしがらみを捨ててでも行動しなければ、自分の身は守れないでしょう。今の時代は特にそうかも知れませんね。そして何故その選択をしたのか、を考えることで見えるものもあると思います。

しかし、いつも言うのは簡単です。辛辣に感じるかもしれません。そうやってストレスから解放されることができるなら、最初からやってるよ!といった声も聞こえそうです。優しい人ほど周りとの軋轢を生まないために自らを殺し、我慢し、そして疲れ果てて行くように見えます。優しさは有限です。自己犠牲精神も美徳である反面、それは時を選んで使わないと、身を滅ぼしてしまいます。

エネルギーが余ってる人、余裕がある人は何したっていいと思います。しかしストレスや不満を感じるということは、他の事に構っている余裕がない、とも言えると思います。

3つの自由

さて、ここまで漠然と話してきた「自由」と言う言葉。ここでは様々な哲学者の論から、3つのカテゴリーに分けて見ました。

意思的自由、倫理的自由、存在論的自由です。

さあ、なんのことやらさっぱりですね。偉人の言葉なんてそんなもんです。しかも大体がヨーロッパの人たち。日本の歴史的背景とは異なる文化から生まれた考え方なので、しっくり来ないのは当たり前かもしれませんね。

僕の解釈では、意思決定における自由、道徳的観点からの自らが良いと思えることを行える自由、存在すること自体の自由、というふうに言い換えられるではないでしょうか。

自由意志

意思決定における自由とはつまりどういうことなのか。これは個人それぞれが自分の意志によって、したいこと、好きなことを外から強制されたり周りの圧力に左右されず行動や選択出来ることであると言えます。

しかしそれには行動に伴う責任というものが付いてきます。その責任の解釈というのが人それぞれ違うところがまた難しいところですが、現代の日本社会では法律やルールといった形でそれをわかりやすく明示してるとも言い換えられるのではないでしょうか。

しかし、それが過度になると、人は自由がない、と感じるのかもしれませんね。いわゆる皆が想像する「自由」に近い概念だと思います。

倫理的自由

これは、道徳的な観点からしたいことを出来る自由、といえるでしょう。
例えば道端で誰かが明らかに何か困っていて、それを助けたいと思う。それが許される自由、例えば仕事に遅刻して怒られるから無視をする、だとか、自分に利益があるかどうかを考えた上で、なんの意味もないと思い助けない選択をする、だとか、そういった例えが妥当でしょうか。そのような状態は倫理的自由がないといえるでしょう。利益のある方が正しいという考え方があるのが、経済合理性の上で成り立つ今の社会だからかもしれませんね。

道徳的な物事に対して様々な選択肢の中から一人一人が、強制や外部からの不当な影響がない状態で理由なんかないとか、そういった形で行動、実現できることがひとつの自由の形といえるでしょう。

存在論的自由

人が自分は何者かという事を、生まれ持った時から備わった能力などに縛られるのではなく、自らの選択と行動を通じて定めていくことです。自分自身が様々な選択肢の中で自ら決めたことで、その人自身を形作り、彩っていく、と言えるでしょう。

反面、人間はそもそも自由である、という考えのもと、だからこそ責任というものが生じるのだと言います。自由であるからこその責任というものが、さらに人間を不自由にしている、という言い方も出来そうです。

共通点

それぞれの「自由」に共通するところがあります。他者を害さない限りに許される、ということ。何をもって害なのか、それも人それぞれなのがここの難しいところですね。そしてその害も、どれだけ個人の中で赦されるのかもそれぞれの匙加減であるということ。この辺りはやはり一般性というものが一つの指標になり、コミュニケーションによってそれぞれの好みを知ることで可能な限り避けることは出来るのではと考えます。そしてそれぞれの場合、自分の気持ちや意見を主張することも時には必要になってくるかもしれませんね。

そしてそれぞれの3つの「自由」は隣り合わせで繋がっていて、お互いに関係しあってると言えるでしょう。

選択肢の中から自ら決定しそしてその結果には責任が伴う、ということ。

逆にいえば、選択肢がなく、誰かに決められた状況は責任が伴わない、ともいえるでしょうか。

しかし現代では選択肢がなく誰かが決めたのにもかかわらず責任を負わなければならないと言うことが少なくない為、不自由である、と感じることが多くなり、ストレスの原因になっているのではないでしょうか。

これから

人が生きる上で、社会やコミュニティというものは必要になってきます。その反面、それが枷や重荷にもなっているのは事実です。

人によってはそこからの脱却として、会社を辞めたり、村から都会に出たり、日本から海外に出たり、「選択肢」の中から自分に合う「世界」を選んできたのだと思います。

しかし、その選んだ「世界」が合わなかった場合、今度はどこに行けば良いんでしょうか。「選択肢」がありません。その場合、「自由」が担保されていると言えるでしょうか。苦しく感じる人もいるでしょう。

だからこそ、これからの新しい「選択肢」として、今まで存在はしているがとても小さくて見つけにくい、もしくはこれからの時代、新しい技術から生まれる空間、例えばメタバースというものが期待されているのではないでしょうか。新たな「世界」を求めて。

しかしここで忘れていけないのは、メタバースも「社会」であり、そこにはまたルールやしがらみも存在するということ。その先に人類は何を見るのでしょうか。

もしかすると、本当の「自由」とは人間を辞めることなのかもしれませんが、果たしてそれは本当に「自由」と呼べるのか、これからまた考えていきたいと思います。




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