【書き方について】私のマジカル・ジョンスン(2023年版)
「これを見なよ」
といって私はズボンのゴム紐の、臍の下あたりに親指をかけ、下着もろともスボンを引き下ろしたのである。
ボロン、と音こそしなかったが、そのような擬音・擬態のような感じで本尊が顔をのぞかせたのである。
「こいつの名はな、MJというのだ。マイケル・ジャクソンではないぞ、マジカル(魔術的な)・ジョンスンというのだ」
私はそのまま部屋を歩いた。
歩く足につられてMJもまた揺れるようであった。
「いまはこのような姿をしているがな」
といって私はMJを上から覗き込んだ。年を取った胎児のような具合でふらふらと揺れていた。
「いったんことがあれば」
と私は少しく声を大きくした。
「如意のごとく、また如意のままに、ほんらいの姿を顕すのだぞ」
私は薄く笑った。歯がのぞき、冷酷みたいな感じになるのだった。
「あたしの言葉といっしょですよ」
喉を鳴らして、私は笑った。
「太くて、長い。あるいは、長くて、太い。ひいひいいわせてやろうか」
私はズボンを脱いで椅子に座り、足を組んだ。令和の道鏡といったような言動、そして振る舞いである。
「そしてね、このMJのかわいらしい、両生類の口のような尿管の奥には、胎内巡りのようにして奥まったさきには、ピーナッツバターがたっぷりと溜まっているのですよ」
私は手を組み、右手の人差し指で左の手の甲をとん、とんと叩くようなしぐさをした。
「あたしを怒らせないほうがいい」
声を低め、静かな部屋に重く響くようにした。
「あなたのコッペパンを二つに割ってひらいて、その奥にこの……」MJを見、また前を見た。「マジカルを、ジョンスンを……差し、抜き、あるいは抜いては差してそののちに、ピーナッツバターをたっぷりと、塗っておわってコッペパンをとじて……それがきょうのランチになっても、それでもあなたは、あなたはそれでも、いいのかね」
ふはははは、と私は高く笑った。
誰かに話すようにして私は話しているのだが、この部屋には私のほかには誰もいないのであった。猫はいる、いるが猫に話しかけているわけでは勿論ない。猫は東の窓からさしこむ日を浴びて、眠りこけているのである。
まるで狂人のような言動および振る舞いであるが、何も狂人の真似事をしてこのようなことをしているわけではなく、真剣にというか、普通の感情の状態でこのような行いをなすのである。
私はやはり、どこかおかしいのだろうか。
いちおう理由はある。このようなことをしていると、ふつふつと言葉が湧き出してくるのである。怒りのようにして湧くこともあるし、よろこびに満ちていることもある、ゲラゲラと笑うこともあるし、涙のようにして言葉が流れることもある。
なので私はノートパソコンを開き、湧いてくる言葉をできるだけそのままのようにして文字に起こしていくのである。
このような書き方をする人はほかにもいると思う。シェークスピアさんなどもこのようにして戯曲を書いたのではないかと思われる。バルザックさんなどは確実にこの書き方だろう、コーヒーをガブガブ飲みながら、もっとやばい言動及び振る舞いがなされていたと思う。一方マルキ・ド・サドはこういう書き方はしなかったと思う、サドさんは背中を丸めて紙に向かい、静かにせこせこと筆を進めていたと思う。
「これを見なよ」
と私が言う。
私は同じシーンを何度もやる。何度もやって台詞を変えたり、間を変えたりしてブラッシュアップを図る。
「こいつの名はな、MJというのだ。マイコウ・ジャクソンとはちがうぞ、マジカル(呪術的な)・ジョンスンというのがこいつの諱(いみな)だ」
しかし、切りがないのでもうやめる。
私は普段このようにして文章を書いている。
文章を書く目的は、分からないことを書くものだと私は考えている。というのも分かっていることを書いても、それを読む人はいないと思うからである。
読む前から一から十まで分かっている文章を読むような暇は私にはない。知らない、あるいは分からないことが書いてあると思って、わざわざ時間を割いて、見えにくくなった目を皿のようにして文章を読むのである。
この世は謎だらけである。五十年ちかく生きてきたが、つくづくそう思う。
自然科学において、発見は個人のものとなる。たとえばリンゴがぽとりと落ちる現象にはニュートンの名があるし、光が宇宙空間で曲がることがあり、それゆえに時間も曲り、それゆえにというか仕組みはよくわからないが空間もねじ曲がるという現象にはアインシュタインの名がある。
一方、文学においては、新発見は何もない。これはこの学問の構造の、根本の性格による。新しいものは何一つない、という立場からこの学問は繰り返されている。
愛について語り、家族について語り、自然について、神について、料理について、また介護について語られる。殺人もあり、まだ見ぬ新技術がわけの分からない体言を駆使して描かれる。
ジャンル分けをすると色々とあるが、通し番号をつけると8から8千万ぐらいにおさまると思う。
それぞれに傑作がある。
傑作があるので、その分野(ジャンル)はお役御免かというと、そうではない。
文学は、新しいものは何一つないという立場をとるが、同時にそれぞれ個々の立場があり、解釈、語り口、思いや気持ち、心情、考え方はそれぞれ個々の言い分があるとしている。
端的にいうと、新発見はないが、見方、語り方は無数にあるというものである。
富は無限ではないが、その分け方は無限にあるという考え方にも似ている。
文学においては傑作があったからといってその発見が真理となり、真理は動かざるものであるからその分野における探索は沙汰止みになる、ということにはならない。
文学は分からないことを書こうとする業である。分からないなりに、時折、それなり分かったようなことが書かれることがある。時には本当に解ることもある。
しかし、解ったその先には分からないことが初めて訪れた町の筋道のように四方、八方に広がっている。ここらへんの事情は自然科学も同じだと思う。
分からないことを書こうとする時、私が心がけているのは、まず難問をこまかく細分することである。大まかに分からないという現象を切り身にして、それをさらに細かくきざむ、きざんで、きざむ、そしてその膾のような細片をパレットにのせて、拡大鏡を覗き、本当に分からないことと、分かっているぽいことに分類する。
ここで注目するべきは、分かっているぽいことである。それらを抽出し、ノートに箇条書きにする。小見出しを与える。専門的な用語は使わない。ありふれた言葉を与える。名詞を与え、述語、目的語を割り振り、助詞、助動詞をふりかける。あるいは名詞を与え、助詞、助動詞をふりかけながら、述語、目的語を割り振る、あるいは目的語、述語を割り振る。
そのようにして、分かっているように形を変え、意味の肉を与える。実証の実験という意義においては、文学はこの点においてかなり心許ない。というのも作者や筆者は一人しかおらず、編集や校閲などといった助力はあるにしてもけっきょく執筆の行為は一人がなすものであり、繰り返しての実験や実証がこの段階では行われないのである。
ともあれ、分からないことは、分かっているような説明、言説で外堀を埋められていく。筆者もしくは作者が地道に、着実にこの作業を続けると、分からないことの領域は狭められ、やがてその形を見せるみたいな感じになる。
優れた作品には、必ず、意味が分からないことが書かれている。
全部が分からないのではない、大体は分かるように書かれてある。その分かっている軍勢が垓下の城に立て籠った項羽の軍を取り囲むようにして、歌う、
わかったぞ、わかった
ここまではわかった、あとは
わからないのは、おまへだけだ
観念しろ、降伏しろ、故郷に帰ろう
と歌うのである。
しかし項羽は僅か数十騎を従えて、垓下の城を出、包囲網を突破して、数百キロも走ったのである。
追いかける漢軍及び諸侯の兵の気持ちははやる。何しろ、わからないことがわかるのである。人間にとってこれほどスリリングでファンタスティックなことはない。
烏江(うこう)という所で、何とかいう項羽の昔の知り合いの人が項羽の首を取ろうとする。すると項羽は「馬鹿たれが」と不敵に笑い、自ら首を斬って死ぬのである。なので、わからないことはわからないままに残されるのである。
一方、ほとんど、大体がわからないように書かれている文章も世の中にはある。まるで、わかるという認識は偽りで、罪であるとでもいうような気持ちで書かれているようである(推測である、何しろ読んでもわからない)。
私は、分かることは分かるように書かれている文章を読むことを好む。技術的な上手い下手はさておき、分かっていることを分かっているままに素直に書いてある文章を好む。
分かっていることを持って回って、稿料を稼ぐためか知らぬが、薄めて拡散し、くどくしたような文章は嫌いである。
分かることを分かり易いように書いているのでスラスラと読めて、しかし読後にクエスチョンマークが浮かぶような文章がもっとも好きである。
こういった文章を書く人は、あまりいない。
分かっていることだけを書いたり、分かっていることを薄めて伸ばして、あるいは分からないように書いたり(これは虚偽罪である)するほうがあるいはお金になるのかもしれない。
マジカル・ジョンスンは私についている。私だけではない、たくさんの私についているごくありふれた器官である。
この器官は、なぜこのような形なのか。あるときは伸び、あるときは縮む、如意のようであり如意のままにはならない。それはなぜなのか。
なぜを問うのは文学の得意技である。問うたところではっきりとした答えが得られるわけではない。未来永劫わからないままなのかもしれない。しかし、だからと云って黙っているに如くはないという法はないし、あるいはもの言えば口唇寒しといったふるまいは、文学が最も憎む態度である。もしもそれが正しいのだとしたら、この世には文も詩も全く生まれる余地が無く、宝物のようにしてきて伝えられてきた文や詩も、また詩や文もみな消えて無くなってしまうからである。
私はこのようにして読み、また書くのである。
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