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【歌論】令和の歌謡の天才、米津玄師について

どこから春が巡り来るのか
知らず知らず大人になった
……

「さよーならまたいつか」米津玄師

 という風にこの歌は始まる。

 知る人ぞ知る、ではなく、だれもが知る正真正銘の天才の歌である。

 まず、連想するのは岡村靖幸である。あと、米国の岡村靖幸こと、プリンス。この三人はよく似ている。

 この三人は、歌が滅茶苦茶うまい。そんなのは当たり前で、プロなのだから、それはそうで、さらにこの三人よりも歌がうまい人は何人もいるだろう。しかし、この三人は明らかに他の歌上手とは違うところがある。

 たとえば、山崎ハコとかアルベルト城間とか、渡辺美里、石川さゆり、草野マサムネ、ビギン、トータス松本、稲葉浩志……歌自慢の芸能人はいくらでもこれを挙げることができる。しかし、これらの人と、前記の三人は違う。その違いを一言で言えば、「超絶技巧」である。

 前掲のうたのはじまりに注目してもらいたい。「どこから春は巡り来るのか」というのが歌の始まりなのだが、「どこから」の「ら」は、「は」もしくは「わ」として歌われている。なので、「どこから」とも「どこかは」とも「どこかわ」と、聞くたびに変化するように、“わざと”発話されている。そうなると、「から」「かは」「かわ」となるので、音義的に「川」もしくは「河」、または「江」が連想されるように歌われている。だから、私たち聴取者は、「春が巡り来る」と同時に春夏秋冬の季節と同時に、川の流れも連想させられるのである。“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし”という、いわゆる、日本の河のことである。

 子音(しいん)の揺れを巧みに話者は使い続ける。続いて「知らず知らず大人になった」という「知らず知らず」の部分である。ここでも「ら」が揺れる。シラ、シラと反復されるわけであるが、「ら」は意図的に「が」みたようにして発話されている。なので、「知らず」は「四月」になるのである。「四月知らず」あるいは「知らず四月」というようにして歌われている。

 子音の揺れを利用して、話者は言葉のイメージをひろげている。まるで、みそひともじ(三十一文字)に表現のすべてを懸けて、枕詞とか、序詞(じょことば)とか、掛詞、縁語、本歌取り、体言止め、句切れ。見立てとか、歌枕、隠題(かくしだい)などといった手法を駆使して歌をつくった、新古今の頃の歌人のように。

 引用部分をまとめると、「どこから春が巡り来るのか 知らず知らず大人になった」ではあるが、あるときは「どこ川(河・江)春が巡り来るのか、知らず(四月)知らず(四月)大人になった」と聴こえるように、歌っているのである。

 ここでおもしろいと思うのは、この修辞法(レトリック)が表記文字のみにたよるのではなく、眼目はその発音にあることである。「枕詞、序詞、掛詞、縁語、本歌取り、体言止め、句切れ。見立て、歌枕、隠題」というのは千年の時を越え、書き文字で現代に伝わるが、和歌が発音されて親しまれていた時代には、もっと別の表現技巧があったのではないかと、思われるのである。百パーセントそうに違いない。

 以上、米津玄師について、褒めたのであるが、難癖もある。同時に、岡村靖幸やプリンスについてでもあるが。

 プリンスは、まごうことなき、信じられないほどの天才である。むやみやたらに曲を作った。苦しかった、と思う。その代表作、といわれてもそれが何なのか、わからん。「パープル・レイン」だろうか。「パープル・レイン」といわれても、聴いたことはあるが、ようわからん。

 岡村靖幸も同じである。「カルア・ミルク」だろうか。「あの娘ぼくがロングシュートを決めたらどんな顔するだろう」だろうか。いずれにしてもアルバム『家庭教師』は岡村靖幸の最高傑作であろう。今のところは。

 プリンス、岡村靖幸、米津玄師、この三人に共通するのは、われわれ素人が、カラオケで歌いにくいのである。 

(前略)そう?え、手相、手相見てあげようか…え、ちょっとかして、ん、はぁっ…ちがうちがう、両方、両方。んはぁっ、まあね、ちょっとね触ってみたかったんだけど(後略)
「家庭教師」岡村靖幸

 こんな歌をうたっても、歌われても、どうしていいかわからない。「お金をつかわないで、しあわせになる方法を教えてあげようか」といわれても、どうしていいのかわからない。カラオケ向きではない。

 米津玄師は、プリンスや岡村靖幸よりも、我々カラオケ層に対する目配せをしている方だろう。できるだけ、歌いやすように作ってはいるみたいな感じがする。それにしても、本人が持っている。持っている技巧を駆使したいという性分は隠されない。

 渡辺美里の歌は、うたいやすい。ビートルズもそうだし、ディアマンテスもビギンも、スピッツもビーズ……その他の色々な人たちの歌は、口ずさみやすい。生活的にいうと、我々の近くにある。

 だからといって本稿は、高踏的な、超絶技巧の歌を否定するものではない。批判しているみたいな、そんな感じではあるが、クリティークの意図はあるが、言いたいことは、色々な歌があって、それはそれでいいということである。色々にあって、色々なばやい(場合)において、私はそれをたのしんでいる。

 ありがとう。ということである。感謝する。

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