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【中編】トゥンジュムイの遠い空③

 ウシの家はトゥンジュムイの東の平野にあり、飛び飛びではあるが一帯に土地を持つ家柄で、家の男たちが、夫は三年前に死別し長男は南方出征中、次男も同じく出征中の現在は、畑は近所の人に貸している。長女は遠く本島北部の山原に嫁に行き、商店を兼ねた家には二十一歳の次女と二人で住んでいる。商店とはいえこのご時世では売る物も殆ど入ってこず、庭を畑にして芋を栽培したり、趣味である花の世話がこのところの主な労働である。つい先日那覇の町に大空襲があり、嫌な空気が首里の丘陵をのぼって辺りに漂っているようであった。このところ夕焼けがいつもより赤く、外に出た時に店先の植木鉢の花が血塗れのように見える日もあった。

 トクスケ(これは本作品の主人公、前項で語られた男の名である)の家とは小川と畑を挟んでいるが隣近所である。トクスケの母は元々久場川の生まれで、隣の集落である汀良のウシとは同じ尋常小学校、共に六年制を修了している。狭い首里のことなのでお互いずっと顔見知りではあったが、それほど交流のある間柄ではなかった。それが同じくトゥンジュムイに嫁に来て、ウシは地主の嫁として、トクスケの母は貧家の主婦として集落内でよく顔を合わせるようになった。

 十六年前、ウシの長女が十七のとし、第一高等女学校に通っていた頃、両家に変ないざこざがあった。当時、長女は頻りに寄宿舎に入りたいとウシやウシの夫に訴えていたものだ。ウシにしたところで娘の願いは叶えたいと思い、沖縄県女子師範学校・県立第一高等女学校の寄宿舎に何度か掛け合ってみたのだった。しかし、遠く離島や山原から通うならいざ知らず、学校は那覇の郊外の安里にあって、周縁を接する首里から通う学生に部屋を空けるほどの余裕は寄宿舎にはありませんと、その都度断られていた。その旨を長女に告げると、余程寄宿舎に入りたかったものと見えて、「何故私をこの地で産みましたか。先島や山原に親戚はいないのですか。もしいましたら私を、幼いときに捨てて、育ったのは彼の地だと訴えることもできますでしょうに。しかし、そんな者はいないのでしょう(笑)。あなたたちはこの旧弊な、丘の上のちいさな町にしがみついて、海の彼方から来る文物や文化に対してはいつも知らぬ存ぜぬで、微妙な、ぬるま湯のようなしきたりや旧習に縛られて、先祖代々暮らしてきたのでしょう」などとよく解らないことを言って娘はよよと泣くのであった。ウシは困ったが、同時にそんな風に情熱を持ち、親に啖呵を切られるほどの学校に通う娘を羨ましくも頼もしくも思ったのである。

 さて、そんなある日の夕方。

 学校から帰ったウシの長女は机に鞄を置き、普段着に着替えようと制服の裾に手をかけたのである。ふと、視界に変な影があった。妙だと思って上げかけた腕を下ろし見回すと部屋の隅に男が座っていたのである。大声を聞いて、ウシが慌てて娘の部屋に来た。襖を開けると、膝を立てて両腕で膝を抱いて座るトクスケが視界に入ってきた。「おとう!」とウシは大声をあげた。幸いウシの夫は畑ではなく、その時は店先で煙草を吸っていたのである。それで間をおかずにこの修羅場にいち早く来ることができたのである。

 ウシの夫は激怒してすぐに警官を呼ぼうとしたがこれはウシが止めた。住居不法侵入はあったとはいえ、実際その他には何も無かったのであった。猥褻目的だろうとの推測は立ったが、実行的な態度は何も見られず、トクスケはただ部屋に座って身動きもしなかった。知らせを受けて来た母親の振る舞いもまた、ウシの夫の怒りに水をかけるような始末となった。家に飛び込んで来たトクスケの母親は、部屋に入る前に大きく深呼吸をしてきたとでもいうような大音声で「おまえなど生まなければよかった」と言ったのである。それから、あたりにあるいろいろな物を容赦なくトクスケに投げつけた。人の家なのにお構いなく、投げる物で襖が凹んだり砂壁が壊れたりもした。机の上にある文鎮をトクスケの頭めがけて振り下ろそうとするので、これは流石にウシの夫がその腕を取って止めさせた。

 母親のヒステリーは中々やまなかった。背後から羽交締めにされながらも劇しく身悶えし、呪いのような叫びを部屋の壁に反響させた。しかし段々と体力が尽きたような様子となり、男の力に抱えられ、少しく男の体に密着し妙な腰の動きをして、やがてぺたりとうつ伏せとなりシクシクと泣き始めたのであった。

 トクスケはといえば最初に発見された時と寸分も体勢を変えずに座っていた。ただ、床を見つめるその目には陰が下り半死人のようであった。その場にいる誰もトクスケに事情を訊こうとはしなかった。固よりそういう話が通じる相手だとトクスケを見做している人間はこの集落内には誰もいないようであった。

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