【読書記録】「『集合と位相』をなぜ学ぶのか」 藤田博司
フーリエ級数にはじまって、厳密数学の歴史を概観しながら現代数学における集合論の役割を説く本。
今となっては当たり前だが、関数が数から数への任意の対応関係であるという概念は実はここ数世紀に生まれたものだというのは驚きである。18世紀後半のオイラーやラグランジュでさえも、「関数はテイラー展開である」というところを出発点に議論を進めているのだから、学問の歴史とは実に面白い。
フーリエ級数の提唱によって「関数」の概念が揺さぶられたことによって、関数を「写像」すなわち点から点への、さらには点の集合から点の集合への対応関係として理解するようになった。これが現代数学において集合論がほぼ共通語として用いられることになる第一歩とも呼べるのかもしれない。
集合の対応関係として写像が持ち込まれたことによって、単純な「数の学問」を超越した数学は、無限にまつわる論議を中心に数々の直感を打ち破る発見を繰り広げていく。例えば「直線と平面は同じ大きさである」というのも、集合論を使うことで実際に証明されてしまうのだ。
「直線と平面が同じ大きさ」という命題によって「次元」の概念が大きく揺らぐことになる。仮に直線と平面が「同一のもの」なのであれば、xyの2つの数を用いなくても、直線を経由することで平面上の点が1つの数で特定されてしまう。これは実に由々しき事態である。
実際は、位相(開集合)と連続、連結という概念を導入することによってこの問題は解消される。直線と平面は同相ではないということから次元の役割は保証されるわけだが、上記のように直感とはかけ離れたことが平気で起こるのが無限の恐ろしいところである。
ではこの集合論・位相論がなぜ数学の公用語となったのだろうか。この本の中で挙げられている大きな理由に「構造の記述」がある。フランスにおいて教科書を編纂する際に、ユークリッドの原論のように、まず初めに定義と公理を置いて、この公理と定義のみから理論を記述しようというスタイルだ。当然、抽象度の流れは広範から瑣末へである。そこで数以上に抽象概念との相性が良かった集合論が当の教科書の第1巻を飾ることになった。
この流れは歴史的に20世紀の構造主義に多大な影響を与えているのも見逃せない。ソシュールやレヴィ=ストロースといった構造主義の権化が闊歩する時代の中に、論理に忠実になったことによって概念の構造的記述へと帰着していった数学もあったのは実に興味深い。