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『魂の回復プログラム』が発動したら沖縄にみちびかれた話

1.エイサーからの沖縄タイムトリップ

息子が運動会でエイサーを踊るのらしい。
連日、You Tubeの動画に合わせて舞っている。
たまに陽気な『ハイサイおじさん』が流れて、私もうちなー気分。
そして唐突に思い出した。20年前の今頃、沖縄に住んでいたことを。

2.伏線は八ヶ岳にあり

これには伏線がある。
先日、八ヶ岳中腹のログハウスにて、山下英三郎先生の『修復的対話講座』を受講した。御年75歳の山下先生は、日本のスクールソーシャルワーク分野の開拓者であり、日本社会事業大学の名誉教授でもある方。

修復的対話講座ではロールプレイを行う。(あらかじめ設定された問いに、各自が順番に語るという形式のもの)その際に、いわゆる身体内部の気づきというか、からだの中でガラスが砕け散るような体験をした。身体内部の気づきが起きているときは、言葉は無意味。何をしゃべっても嘘になる。本当は波がおさまるまで黙っていたほうが良かったのかもしれない。
間が悪く、そのときの私はファシリテーター役。完全に黙りこくるわけにもいかず、なんとも半端に喋りつづけることになってしまった。無理して喋ると、せっかくの身体内部の気づき(感情レベル)が中間層の気づき(思考レベル)に移行してしまう。その不一致感が、あまりに気もち悪くてしばらく波酔い状態。

身体内部の気づきが起こると、周りにいる人々は浅瀬にいるまま、自分だけが秒で深海に吸い込まれる感覚になる。その余韻は、ゆるゆると続く。これまでに到達しえなかった新しい「解」に突き当たるまで、ゆるゆると深海のドリフトは続く。
こうして場を構成するメンバーの誰かが深海の旅をはじめると、その場は格段に深い次元へと調整されていく。他のメンバーにも「深海への扉が開きました」と集合無意識ネットワークを使って告知がとどく。

3.沖縄タイムトリップ(本題)

このような体験を、実は20年前の沖縄でもしている。
大学を留年した年、卒業研究の対象だった灰谷健次郎を追いかけて沖縄の離島に向かった。

教員を経て児童文学作家になった灰谷健次郎。実兄の自死によって精神のバランスを崩し、教員を辞めて茫然自失のままアジアや沖縄を放浪する。沖縄は喪失の歴史が繰り返された地であるが、空と海はどこまでも青く、人々はどこまでも朗らかであたたかい。灰谷健次郎は、沖縄の離島に移住を決め、やがて魂の回復を遂げる。

『兔の眼』『太陽の子』など、鬼気迫る筆致で児童文学の名作を残した灰谷健次郎だが、島ではくつろいだ雰囲気のエッセイを残している。

私としては、灰谷健次郎を包摂した沖縄には何があるのか、ただ知りたかっただけ。それで大学4年の夏にひとり、かの離島に乗り込んだ。
実はそこで対話のルーツに出会うことになるのだけど。

(もちろん、そんなこと予想していなかったよ)

夏休み、泊港から乗った船は学生らしき若者であふれていた。島に上陸し、予約していた民宿に着いて荷物を開けると、見覚えのない中身。

(ヤッチマッタ)

後でわかるのだが、船に同乗していた若者たちは、某大学の哲学ゼミの学生たちだった。私はゼミの助手の方と同じ旅行鞄をもっており、それが船の荷物置き場ですり替わってしまったのだった。宿でおろおろしていた私とちがい、先方は数で勝負。ゼミ生たちが集落中の民宿やペンションをローラー作戦で訪ね歩き、途方に暮れる私を見つけてくれたのだった。

その夜、せっかくのご縁だからとゼミ生に招かれ、車座になって哲学対話に参加。昼間の「浅瀬」感はなりをひそめ、みんながみんな深海魚。包容力ある静かな佇まいの教授と真摯な学生たち。うそぶいたり、ごまかしたり、強がったり、人のせいにしたり、笑いとばしたり、そういう防衛的な要素がそぎ落とされた、彼らの澄んだ在り方に深く安堵した。

初めての一人旅というのに、のっけからそんなハプニングに見舞われ、私の20年来のガチガチな防衛甲冑には、さすがにひびが入りはじめた。

表向きは灰谷健次郎の研究で島に滞在しているわけなので、翌日は灰谷健次郎のエッセイに登場する関係者を尋ねてまわり、島に二つしかない小学校を見学させてもらった。(一応、当時の身分は教育大の学生)

縁が縁を運び、夜は島の食堂で灰谷健次郎に縁のある人々と食卓を囲むことになった。
島の皆さんが、この得体のしれない来訪者に好奇心を示し、やわらかい物腰と口調で世話を焼いてくれる。ガチガチの防衛甲冑は、もう屁の突っ張りにもならない状態となっていた。甲冑が指一本で砕け散るまで秒読み開始。

その夕食の席で、私は運命の質問を投げかけられる。
「オマエ、島に何しにきたんだよ」
元ボクサーで無口な海人のおじさんによる、むだのない、ゆがみもない、ひねりもない、あまりにもストレートな問いに、しばし絶句・・。

卒業研究の資料集めに来ましたって言えばいいじゃん。
ハイタニさんの追っかけですってにっこりしときゃいいじゃん。
すべて丸く楽しく「あはは」でおさまる答えを探せばいいじゃん。

ダメダメダメダメ。
もはや、そんな浅瀬感満載なお返事ができる状態ではありませんでした。

私は何かが起こるタイミング、何かを獲得するタイミングでしか、自ら動かないタイプ。そのとき、そこに自分がいるのは、数かぎりないめぐり合わせがもたらした必然。

「いま、20年間でボロ雑巾と化した私の魂の“回復プログラム”が発動しています。このプロセスは途中で止められず、内なる声に導かれるまま動くよりほかありません。その内なる声が示したのが灰谷健次郎であり、この島だったのです。ひとつ確かなことは、必要に導かれてここにいるということ。この島を訪問した表面的・現実的な理由については簡単にお答えできますが、この旅の深層の目的については、私自身もまだプロセスの途上で、残念ながらうまいこと言葉になりません。しかし、せっかくの問いには何らかの形でお返事をしたいです。もしお時間をいただけるならば、旅が終わったあとにあらためてお手紙を差し上げるというのはいかがでしょう」

そんぐらい言えや、自分。口下手もどかしいわ。
さて、22歳の私がどうなったかっていうと。
甲冑はあとかたもなく砕け散り、女の子はわんわん泣きましたとさ。
問いの答えは体感としてすでに手に入っていた。でも、それはまだ言葉にならないのだもの。

かの海人は、「女の子を泣かした罪」で村人からいじられまくり、私は泣きながら笑い転げ、てんやわんやのぬくい空気感のなかで人びとはひとつになったのであった。
こういうとき、指一本で甲冑を砕くのは、だいたい作為や意図のない人

その翌年、私は就職していく学友たちを見送りつつ、沖縄に移住した。

(数か月で、東京にもどってきちゃったけどね)

4.未完了が完了するとき

なんだか私、ずっとくるしかったんだな。ずっとしっくりこなかったんだな。ずっとこわかったんだな。ずっとさみしかったんだな。

そいういうふうに過去形で言葉にできたときは、すでに未完了の感情体験は「ほぼ完了」している。言葉が出てくる前に、ながいこと求めていたものをすでに身体が手に入れている状態となる。体感が先、それを説明する言葉は後。過去の出来事との紐づけや再定義も後。
自分を圧倒するものに飲み込まれる怖れを抱えて生き延びるのではなく、それを凌駕する愛をもって怖れを取りあつかい可能な大きさにする。ほんで、恐怖ではなく畏怖くらいの感覚になったら、それはもう上等に峠を越えたことになるのではないか。

とりとめもないが、本日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。


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