見出し画像

美容は誰のため?

私が化粧品を買う時、大きく分けて3つの場合がある。1つ目は、使っていたものがなくなってしまった時。2つ目は、気合を入れたい行事—成人式などの式典や、ネット上で仲のいい人と初めて会う、推しのライブなどの前。3つ目は、化粧品売り場をぶらぶら見ていて目に止まった時。新しく何かを買うという時は、2つ目と3つ目の場合が該当する。2つ目と3つ目の違いは、必要に駆られて買うのと、必要じゃないのに買ってしまう、というものだ。

さて、化粧品を新しく買うということは、自分を前よりもさらに美しく着飾りたい、ということだ。3つ目の場合では、より美しくなりたい、という欲望よりも、単純な物欲が大きく関係していると思う。では、2つ目の、「気合を入れたい時に買う」というのは、果たして自分のためなのだろうか、それとも自分を見る誰かのためなのだろうか。

私が化粧を始めたのは、上京し浪人してから、あるいは大学に入学してからだ。「あるいは」という言い方をしたのは、「化粧をしなくてはいけない」という義務感が発生し、とりあえず毎日眉毛は描くようになったのが浪人中で、実際に毎日しっかり化粧をし始めたのは大学から、ということだ。高校までは、化粧っ気のケの字も無かった。学校でこっそりバレないくらいの眉毛のメイクをしている子を見て軽蔑すらしていた。学校は勉強するところであって、メイクをする必要はない、と本気で思っていた。浪人中も同じく、予備校は受験対策をする場であってメイクの必要はないと思っていたのだが、少しだけ、周りの目が気になるようになった。高校と違って校則があるわけではないので、しっかりメイクをしてくる子もいる中で、メイクをしないということは「メイクをしないという意思表示」になる。もちろんノーメイクの子も少なくなかったが、東京に出てきて、田舎者だと思われたくない気持ちも多少はあった。それで、とりあえず眉毛を整えるようになった。今思えば色気付いた中学生のようだが、実際私は18歳にして色気付いた中学生レベルの美容意識だったわけだ。予備校ではデッサンをしていたので、目に違和感があると嫌だったためにアイメイクこそしていなかったが、「毎日化粧をする」という意識はこの頃に発生した。

毎日何かする、というのはルーティンであり、自分に課した義務である。今のところ化粧をするのは苦ではないので、義務とは思っていないが、メイクという選択肢が無かった頃と比べたら、そりゃ窮屈だ。

私にとって、メイクをした顔は「人様にお見せできる顔」であり、すっぴんは「人に見られたくない顔」になってしまっている。いつのまにかそうなってしまった。私は私のすっぴんが嫌いではないので、すっぴんのまま鏡を見つめていることもあるし、自画像を描くのも好きだ。しかし、それでも、なんとなくノーメイクで学校に行く、ということが出来なくなった。なので、私にとってメイクは他人のため8割、自分のため2割だ。さらに、この他人とは男性でも女性でもない。これは性の問題ではないような気がしている。

このような場合、主体が女性なら、「男性のため/自分のため」という二項対立がとられがちだ。これは間違っている。男性の対立項は女性であり、自分の対立項は他者だ。自分と女性はイコールではないし、他者と男性はイコールではない。

美容と性はたしかに強い結びつきがあるが、現代では美容の効能はそれだけではないと思う。同性コミュニティの中でも美的判断はあり、優劣はつけられる。化粧をしていないことで白い目で見てくるのは、男性ばかりではない、女性もだ。それは男性に便乗しているのではなく、単に「なんで人前にでるのに化粧していないの」という理由だ。美容は性の問題では無くなってきている。だからこそ、男性用の化粧品が、「最低限の身だしなみ」を謳い文句に登場してきているのではないかと思う。

私は、「なぜ女性ばかりメイクしなければいけないの」とは思わない。ただ、「なぜ人前ならメイクしなければならないのか」と思う。

見た目でジャッジされるのは男性も同じだ。女性と男性で、その「程度」に違いのあることはもちろん見逃してはいけないのだが、「見た目でジャッジされること」そのものについて論じていかなければならない。


今日はここまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?