見出し画像

名古屋市美術館『福田美蘭―美術って、なに?』展 いち美大生の感想

昨日、名古屋市美術館で『福田美蘭―美術って、なに?』展を見てきた。きっかけは、椹木野衣の『増補 シミュレーショニズム』(2001)の中で福田美蘭の作品≪湖畔≫が紹介されており、とても面白く感じたからである。

≪湖畔≫(1993)
アクリル、カラーコピー・パネル
埼玉県立近代美術館蔵

『シミュレーショニズム』(初版1991)は椹木野衣の処女作であり、1980年代に『美術手帖』に掲載された論考をまとめたものである。シミュレーショニズムとは、近代美術で邪道とされる「コピー」「模倣」「盗用」をあえて用いることで、それまでにない価値をつくりだすという現代美術の手法である。この論考は、80年代の若手芸術家をの作品を理論的に強力に支持し、美術批評の名著となった。その芸術家たちの中に福田美蘭もいた。
福田美蘭は1987年に東京藝術大学院修士課程を修了し、1989年に具象絵画の登竜門といわれる安井賞を最年少で受賞し、1991年にはインド・トリエンナーレで金賞を受賞した。福田は、「1980年代後半になって、私は従来の絵画を成立させてきた要素である感覚的に気持ちの良い独自の筆遣いや色彩、画面構成から、当初の意図とは異なる何かが生まれる表現をこのまま追求しても、見る人との共通項をもつのは難しいと考えるようになる。そこで、伝統的絵画からコミックまで、視覚による情報として誰でも知っている既存のイメージで作品をつくっていこうとした。」(本展示の図録より)と語っている。その姿勢はいかにも80年代らしいものだが、その後の作品、本展の新作までその姿勢は一切ぶれることなく貫かれている。そして福田の作品を見ていくと、その手法が、「現代を映す」という彼女のテーマを表現するのに、最も適切であると思えるのだ。手法とテーマが完全に一致し、補い合っていることは、「良い」作品の条件である。

さて、ここからは曲りなりにも美術大学という場所で美術というものを学び、作品を作っている身から、福田美蘭の何がすごいのか、作品のどういうところを面白く感じたのか、ということを率直に書いていこうと思う。


絵がうまい

身も蓋もない言い方だが、とにかく絵がうまい。
言語化できる範囲で「絵のうまさ」をすべて分析することは不可能なのだが、「福田美蘭の絵のうまさ」をざっと挙げると、「人体のデッサンの正確さ」「色彩・画面構成のバランスの心地よさ」「細部まで行き届いた観察力
」だろう。これは受験絵画で言われるような一般的な「良い絵」の条件なのだが、これらの能力がすべて、めちゃくちゃ高い。展示は、このいわゆる「絵のうまさ」をまず見せつけられてから、だんだん福田のアイデアや思想をアピールするような構成になっており、その意味で見やすい展示だった。「絵がうまいなあ!」と思っておくと、その後の作家の主張も受け入れやすくなるからだ。

「人体のデッサンの正確さ」については、福田のテーマを表現するために必要不可欠な要素だ。≪志村ふくみ≪聖堂≫を着る≫(2004)は、染織家・志村ふくみの着物が、美術品としてしか見ることのできない状況を不思議に思って、自らが着ている姿を絵に描くことで、絵画の機能や可能性を提示した作品だ。また、≪ブッシュ大統領に話しかけるキリスト≫(2002)は、9.11テロを経て「報復」へと向かっていく大統領を、説得できるのはキリストしかいないのではないか、という発想からできた作品だ。これらの作品のテーマのおもしろさを率直に伝えるためには、「腕が変だな」「顔が変だな」と思われるわけにはいかないのだ。絵の中で着ることができない着物を着ているというありえない現実が、ブッシュ大統領にキリストが話しかけるというありえない現実が、絵の中で「現実になる」から、おもしろいのだ。それこそがこの作品の目的でもある。

「色彩・画面構成のバランスの心地よさ」は感覚的なものなので、絵をたくさん見ていないとわからないことだと思うのだが、これをクリアしていることで、「絵をたくさん見ている美術関係者に、ケチをつけさせない」ことができる。先述したが、福田が従来の絵画に疑問を持ったのはこのような「感覚的に気持ち良い独自の筆遣いや色彩、画面構成の追求」であり、これらを意図的に作品から排除しようとしてきたと述べている。しかし、ある程度は構図を工夫しないと、絵の恰好がつかないのだ。≪見返り美人 鏡面群像図≫(2016)などを見るとわかりやすいのだが、真ん中には原作の女性をそのまま配置し、右側には正面側に視点を移動させた像と、左側には背中側に視点を移動させた像を順番に配置している。しかしそれぞれは等距離ではない。左側には少し余白を残し、正面から少し右寄りのところに真正面から見た顔を配置している。この像だけが鑑賞者の方を向いているのだ。つまりここが、「絵の見せ場」だろう。青木繁の≪海の幸≫(1904)の構図と似ている。見せ場を作り、余白に気を使う。これはいわゆる「うまい絵」といわれる作品の多くがクリアしている条件だ。

そして「細部まで行き届いた観察力」、これは≪陶器(スルバランによる≫(1992)、≪秋―悲母観音≫(2012)などを見れば一目瞭然だ。「模写」としてのレベルが高い。特に≪秋―悲母観音≫について、私は原作が大好きなので、その「絵柄」の再現性に感嘆した。「絵柄」の再現性についてはAI生成のイラストをイメージしてほしい。「ゴッホ風の自画像」や「ダリ風の風景画」など、違うモチーフでも「○○風」に再現してみせる。その「○○風」をつかむ能力は、観察力に立脚する。よく観察し、どこにその作家の特徴があり、どうすればそれが再現できるのか。観察とは、細かく見ることだけではない。全体の雰囲気をつかむことも観察なのだ。この観察力は、デッサンの正確さと同様に、福田のテーマにとって重要な能力である。

先ほど紹介したように、福田はシュミレーショニズムの作家に分類される。「コピー」や「模倣」が彼らの武器である。コピーや模倣をすることは、オリジナルを作るよりも「下」に見られがちだ。しかし、シュミレーショニズムは、「神聖なオリジナルの作品」という価値そのものを揺さぶることが目的なのである。「オリジナルかどうかではない新たな価値基準」の創造が、シミュレーショニズムの目指すところだろう。さらに福田は、それを絵画という実体のある形で実現することに意味を見出している。福田が高いデッサン力と観察力を兼ね備えているからこそ、絵画という形式で、「コピー」や「模倣」による価値、というものを鑑賞者に対して訴求できるのだ。

福田の絵のうまさは、テーマを表現するためのツールであり、しかもそれを適切に、過不足なく使いこなしているのである。

技法の選び方

今回の作品の出品目録を見ていると、技法・材質の欄がほとんどアクリル・パネルであることに気づいた。
カラーコピーを用いているときもあるが、画面に自ら描いているときは、すべてアクリルである。いくつか紹介してきたように、福田は美術史上の作品からインスピレーションを受け、それを模写したり解釈を加えることで作品とするものが多い。その中には、油絵具で書かれたもの、日本画の岩絵具で書かれたもの、木版画までさまざまだ。それらを、徹底して「表面的に」模倣しているのだ。≪ゴッホをもっとゴッホらしくするには≫(2002)では額縁までを平面の画面上にアクリルで描き、先述の≪誰が袖図≫では金箔もそれらしく絵具で描いている。

この材質への無頓着さは、とてもシミュレーショニズム的だと感じる。福田は初期から一貫して写真と絵画の関係について考えている。写真をそのまま絵に描いた作品≪フランク・ステラと私≫(2001)、≪ぶれちゃった写真(マウリッツハイス美術館)≫(2003)などでは、写真が絵画にかわって獲得した「記録」という機能について考えさせられる作品だ。また、新作≪ゼレンスキー大統領≫(2022)は、その映像が伝える現実の不確かさを描く作品である。これらの作品は、近づいて見ても解像度が変わらない、映像的な描写が意図的にになされていることがわかる。福田にとって重要なのは、実体ではなくイメージなのである。

なぜイメージというものが現代において重要視されるのか、それは簡単だ。「実物を見たことはないが、テレビやネットで見たことがある」という状態こそが、現代に特有の人間の知の在り方だからである。「現代を映す」ことを信条とする福田は、当然それを意識的に作品に反映させているのだ。

私は日本画科の人間なので、材質に頓着しないということがとても現代的な部分だと考える。日本画領域で行われる「模写」という営みでは、材料を研究し、技法を研究し、同じやり方で再現するということが非常に重要視されるからだ。それを通して徹底的に過去から学ぶのである。

福田の作品は美術史へのリスペクトに溢れている。しかし同時に、無頓着で、不遜でもある。おそらくそれは意図的だ。美術史におけるあらゆる年代・場所からイメージを引っ張り出してきて、アクリル絵具によってそれらを物質的に等価にする。そしてそれこそが、福田なりに現代の在り方を映す手段なのだ。あらゆる実体が、0と1のデータに変換されて、実体無きイメージとなって浮遊している。それをアクリル絵具の画面上で再び実体化させる試みが、福田の絵画なのである。

やわらかい批評性

「批評」の前につく形容詞としては、「鋭い」がメジャーな言葉だろう。福田の社会への視線は鋭い。しかし、私は福田の批評性を特徴づけるのは、むしろそれを伝える時の「やわらかさ」ではないかと思う。福田の作品には痛烈な社会あるいは美術史への批評が含まれることがある。しかしそこには常に、クスっと笑ってしまうようなユーモアがある。見ていて楽しいのだ。しかし、決して鑑賞者にわかりやすいように「手加減」しているわけではない。彼女が素直に面白いと感じるもの、興味を持ったことが、洗練された技術と知識を通して、そのままの鮮度で鑑賞者の目の前に展開しているという感覚がある。

≪誰が袖図≫(2015)を例にあげよう。この作品は、江戸時代に流行した≪誰が袖図屏風≫の図像に習って、衣桁(着物をかける物干し竿のようなもの)にディズニーキャラクターの服が掛かっており、画中画の屏風には過激派組織ISILが2015年2月1日にジャーナリストを殺害したとして公開した映像の現場の風景が描かれている。

この作品をパッと見たときに、「これは何らかに対する強烈な批判だな」と思った。それは、私がディズニーというものが提供する夢の国というシステムに対してもともと懐疑的な立場であること、またディズニーは権利関係が厳しいので、自分の作品で取り上げること自体がチャレンジングだと感じたことが理由である。しかし、ディズニー好きの人が見たら全く逆のことを思うだろう。「ディズニーだ!」と、とりあえず嬉しくなるはずだ。それがディズニーの版権事情などまだ知らない子どもであればなおさらだ。あるいは、東京国立博物館のミュージアムショップに置いてありそうな、日本の伝統美術とディズニーのコラボか何かだと思うかもしれない。ただじっと見ていると、屏風に描かれた荒涼とした風景とディズニーの絵柄とのギャップに違和感を覚えるだろう。

キャプションによれば、元の≪誰が袖図屏風≫が意図している「そこにいない人物の存在を想像させる手法」は、その「そこにいない人物」をディズニーキャラクターという頭からつま先まで衣装が決められた存在に置き換えることで、より明確になると思ったことがきっかけだそうだ。丸裸で無防備なアメリカの富と権力の象徴と、そこに忍び寄る不穏な空気を表現した作品であるということがわかると、この作品の見方は変わる。これは手加減なしの現代社会批評である。さらに隣には、≪ぬりえ≫と題して、この作品の線画と、黒とオレンジしか入っていないクレヨンが置いてある。黒は戦闘員の服、オレンジは人質が着せられていた服の色である。

これだけ鋭い批評に立脚しながらも、作品全体の印象としては、ポップで楽しいものだ。だからこそ、ひとさじの「切迫したリアル」が際立つのである。このバランス感覚が素晴らしい。

このやわらかさ、奥ゆかしさは「ぬるい」とも評価されうるであろう。もっと強烈にしないと伝わらない、ポップに受容されて終わるだけだという人もいると思う。しかし、強い主張は時に押し付けになりうる。

押し付けなくても、面白そうな作品であれば、見る人は興味をもって見てくれる。洗練された画面、構成の巧みさによって興味を引き付け、よく見ていくと作者の言いたいことにたどり着く。最終的に、鑑賞者と作品が良い距離感を保ったまま、意図がまっすぐに伝わるのだ。

公共的な芸術

展覧会全体を通して考えていたことだが、作品が鑑賞者に開かれている雰囲気が常にあった。それを象徴するのが、子どもたちの「対話鑑賞」が行われていたことだ。対話鑑賞とは、作品の前で感じたこと、疑問に思ったことを自由に言い合って、作品の理解を深めるものだ。福田の作品は、この対話鑑賞にぴったりだと思った。福田の作品は、美術史を学ぶきっかけにもなり、また作品それぞれにテーマやアイデアがあるので、様々な角度から鑑賞のヒントを見つけやすい。

また、福田は「国際社会」や「日本」といった大きなくくりで物事を考えており、そこからテーマを拾ってくる。これは「見る人との間に共通項をもつ」という福田の制作のスタンスからもわかることだ。同じ国際社会に生きる人間としての共通項をとりあげ、問題を共有していきたいという思いがあるのだと思う。しかも、美術に関わる人だけでなく、美術に関わらないひとにも、美術を通して関わっていきたいという思いを感じた。

一口にアーティストといっても、色々な人がいる。自分のアイデアを美術を通して人に伝えたい人、ただ絵を描くのが好きな人、絵をお金にしたい人、本当に色々だ。そんな中で、福田美蘭のアーティストとしての在り方は、私にとって限りなく理想に近いと感じた。

私は、絵を手段だと思っている。もちろん描いている時間は楽しいが、それ以上に、自分のことを伝えて、絵を通して他者とかかわりたいと思っている。福田の作品はそんな私に、ひとつの道しるべを示してくれたように思う。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?