謎の温石(「おんじゃくの事」『曾呂里物語』巻第三)

信濃国に「すゑきの観音」という山の嶺に建立された観音堂があった。
ある時、若者たちが寄り合って、
「今夜観音堂へ行き、翌朝まで堂内で過ごしてやろう、という者は誰かいないか?」
という話になるや、
「それは容易いことだ。己が行ってこよう」
と一人の蛮勇な男が名乗り出て、話もそこそこに観音堂へと出かけてしまった。

この観音堂は、人里から二十四町離れて山深く、日中でも人の往来が稀で、狐狼や野干の鳴声以外には物音もしないような場所であった。
男は観音堂に到着し、中に入ると、夜が明けるのを待つことにした。
夜半が過ぎた頃、朧月の光に照らされて、一人の座頭が琵琶箱を背負い、杖を突いて堂内に入って来た。
「きっと只者ではなかろう」
男は不思議に思い、まず、
「何者であれば、この観音堂にやって来たのか?」
と問うた。
「さてさて、誰か先にいらっしゃいましたか。どちら様ですかな? 私はこの山で暮らしている座頭で、いつもこの観音堂に足を運び、夜は声を出して稽古するために参っております。常日頃から参詣しておりますが、誰か他に人がいたことはありません。大層不審なことです」
と逆に座頭に咎められたので、男はしかじかの事情があってと、仔細を説明すると、
「それは、今宵の良き連れになります。今後は、私の住まいにもいらっしゃってください。どこそこに住んでおりますので」
などと云って、座頭は打ち解けてきた。
男が平家を一句所望すると、
「容易いことです」
と快諾して、琵琶を弾き、一句語ってみれば、男は感じ入って、
「日頃、平家を聞くことはあるが、今回のように趣深いと思ったことはありません。琵琶の音色を始めとして、音声、息継ぎ、どれもなかなかに目の覚めるような出来栄えです。今一句、お聞かせ願いたく」
とさらに所望すれば、座頭は再び演奏して、男はいよいよ感に堪えなかった。

演奏を終えた後、琵琶の転手がきしむので、座頭は弦に何かを塗り始めた。
「それはいったいなんですか?」
男が問うと、
「これは温石というものです」
と座頭は答えた。
少し見せてくださいと、男が手に取ってみると、温石は左右の手に取り付いてしまい、どうやっても離れない。
そのまま、男の両手は温石によって板敷に貼り付いたまま、動かせない状態になってしまった。
その時、座頭は身の丈一丈もあろうかと思われるほど大きくなり、頭には火柱が立ち、口は大きく裂け拡がり、角を生やして、言いようもない恐ろしい姿へと変貌した。
「お前は、一体何のためにここまで来たのか」
化物になった座頭はそう云うと、男の頭を叩いたり、顔を撫で回すなどして、色々に嬲り、脅した挙句、どこかへと消えてしまった。
男はようやっと温石から手を引き剥がしたが、その比類のない無念はやる方なく、呆然と座っていた。
そこへ松明をかざして、大勢の人がやって来た。宵の座敷で共に寄り集まっていた友人たちであった。
「段々と夜も明け方近くなってきたので、迎えに来たぞ。サテ、何か珍しいことは起こらなかったか?」
友人たちが男に尋ねるので、
「そのことだが……」
と自分の体験を始めから細々と語って聞かせると、友人たちは皆手を打って、どっと笑い出した。
何をと思って友人たちを見れば、全員が先ほどの化物の姿に変わっていた。
そこで男は気絶した。

夜が明けて、観音堂にやって来た人が、倒れている男を見つけて、気をつけてやると、目は覚ましたのだが、誰の顔を見ても、
「この化物め、己を誑かす気だな!」
と云うばかりで、正気とは思えず、話にならなかった。
しばらくしてから、やっと正気に戻ると、この話を語ったという。

【参考文献】
・花田富二夫ほか編『假名草子集成 第四十五巻』東京堂出版 2009
・湯浅佳子「『曾呂里物語』の類話」『東京学芸大学紀要』東京学芸大学紀要出版委員会 2009

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