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僕が『シン・ゴジラ』に抱いた疑問(ネタバレあり)

いつもは一人称「俺」だけど、今回は「僕」でいく。「僕」のほうが賢そうに見える気がするから。

映画『シン・ゴジラ』を観た。

友人・知人にはこの作品を絶賛する人が多いので、ちょっと書きにくいのだけど、僕は観ているあいだ、ずーっと1つの疑問が頭をもたげていた。

「3.11を『ゴジラ』でなぞることに、作品としての意味はあるの?」という疑問だ。

『シン・ゴジラ』は、明らかに3.11だった。

「違う」と言われれば、ごめんなさいするしかないのだけど、クライマックスで出てくるあのマシンをはじめ、いくつかの場面で3.11を前提としているというか、3.11を経験しなければ、おそらく大多数の人が知らなかったであろうものが語られたり、描かれたりしている。

「描かれていない」と言われれば、ごめんなさいするしかないのだけど、作品中では「先の大戦」の話は出てきても、「(『シン・ゴジラ』の世界で)3.11があった」ことは明確に語られなかったと記憶している。そういう意味でも、やはり『シン・ゴジラ』は3.11だった。

べつに、3.11は天災で、ゴジラは人間の傲慢さが生んだものだから一緒にするのは不謹慎だ……などと堅苦しいことを言うつもりはない。ただ、多くの人が知っている事実や、見たものや経験したことを、ほぼそのままフィクションとしてなぞることに、作品としてどんな意味があるのかが、どうしてもわからないのだ。

仮に、僕が50年後100年後の人間で、50年後100年後に『シン・ゴジラ』を観たら、これは手放しで感動するだろう。「昔の人は、3.11を経験したあと、それを昇華して、こんなすごい映画を作ったのか!」と。

でも現在を生きる人間としては、「いやこの光景、3.11で見ましたし……」としか言えず、そこに、作品が生み出すはずの新たなモノの見方、新しい価値観を見いだせない自分に、ふがいがなさを感じてしまう。

「エンターテインメントに意味などない」と言われれば、やっぱりごめんなさいするのだけども……。

ここまで書いて、ようやく自分のなかでまとまり始めてきた。僕にはまず、「エンターテインメントでも芸術足りうる」という考え方があり、同時に「芸術には未来を指し示す何かがほしい」という想いがある。

『シン・ゴジラ』に僕は、まだそれを見つけられていないのだ。

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