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冬日(とうじつ)第3話

第1話はコチラから

「考えすぎですよ。室田さんは苦労性だからなあ」
憐れむような山下の声に、今度は室田が苦笑いを見せる。
「ほっとけよ」
「これでも心配してるんですよ、根詰めすぎも良くないですからね。
 どうです、気分転換に今日あたり」
「なにが心配だ、飲みに誘う口実だろ」
「そんなことないですって」
「まあいい、しばらく飲みに行ってないからな、久々に行くか」
「さすが話の分かる人は違う」
「うるさい、資料用意しろ」
「了解です」
やれやれ、と頭を振り、窓の外を見遣る。

自壊。

労働力が自らの手で己を破壊する。
心理統制が行われていれば、それは起こり得ないとされていた。
自我が完全に奪われるからである。
自我を奪われた意識は、もう意識とも呼べず、選択肢を選び取る意志もないはずだ。

それなのに。

自らを破壊する行為が、統制された意識内の論理齟齬により起こったのならば、それは単に事故である。
しかし選び取ったというのであれば、そこには自我がある。自我の存在可能性が自滅により示唆される、というのも皮肉だが、もしそうであれば由々しき事態でもある。適応検査が機能していない。
賄賂の横行が噂に上がるようになって久しいが、それは検査そのものの正当性を揺るがしてはいないか。
一部の腐敗が全体の意識低下につながり、気付けば当たり前のように形骸化していることもある。
室田は以前から、適応検査そのもの信憑性を疑っていた。

いや、それだけではない。

そんな台詞が脳裏に過るが、そこまでに留める。

とにかく、高枝の案件のクレームを収めることだ。
そう自分に言い聞かせ、室田は改めて報告書の作成に入った。

***

どうして、と戸惑い、俺の袖裾を掴む。

どうしてこの人たちは殺されるのかな。

それは危ない兆候だった。
共感が芽生えている。
与えられた命令に疑問を持つことは、自らの存在否定につながる。
その状況下、共感は禁忌と言っても良かった。

長い間行われた戦争は意義を見失い、今や侵略と抑圧の構図が残されているだけだった。
抑圧を受ける側の人間は人口調整のために排斥され、侵略する側の人間はその事実を意識することがない。
形骸化された公共事業は空気ほどに当たり前として存在し、しかし空気ほどの必要性を見失う。
排斥を担う一部の人間のみが、こうして目の当たりにするのだった。

そういう世界の中で、抑圧される側に共感を持つことがどれほど危険なのか、彼女も知らないわけじゃない。

仕方がないさ。

御座なりの科白。
それでは何も救えないと分かりながら、それ以上の言葉が出てこない。
裾を握る手の硬さを、意識の向こうでぼんやり感じる。
(続く)
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