見出し画像

ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア 第1話

「俺は君を許す」

 静かに発せられたのは、こちらが乞うたわけでもない許しだった。

 想定すらしていない言葉に強い動揺を覚えもしたが、しばらくすると思い出すことさえなくなった。

 卒業式後の校門前で別れて以来、あいつとは会っていない。久々によみがえった記憶を反芻して、電車の中吊り広告を眺める。そこにあいつの顔がある。
 そして反芻する記憶は苦い。
 だがそれも、結局はどうでもよいことだった。

 電車が終点までやってくると、そこが海に近いと気づく。

 海でも見てみるか、とわけもなくホームを見渡して何かが引っかかった。
 目の端をかすめた人影。
 見直して、さすがにどうでも良いと言い放つことはできなかった。

 あいつがいる。

 こちらを見ながら立っている。
 目をそらすわけにもいかず、こちらも呆然と見ているしかない。
 しかしあいつは近づいて来たのだった。
「驚いた?」
 ああ、と答えたものの、やはり立ち尽くすままだった。
「海を見るんだろう。行こう」
 麻痺した思考の中で、そういえばそうだったことを思い出し、しかしそれが精一杯だ。
 行こうと言われるがまま、歩き出したあいつの後をとぼとぼとついて行くのだった。

 木村忠、というのがあいつの名前で、初めて会ったのが高校一年だった。
 特に目立つこともなく、積極的に交わろうとしなければ知り合うこともないはずだった。
 つまり話しかけたのはこちらの方で、あいつはいつも教室で本を読んでいたから、いったい何を読んでいるのかを尋ねたのが最初だった。
 静かに告げられたタイトルは、もちろん聞き覚えなどあるはずもない。
 それでもわずかばかりの興味で内容を尋ね、挫折し、本が変わるたびにそれを繰り返した。
 初めて本を借りたのは夏休み前で、その頃には本以外のことも話すようになっていた。

 話しかけた理由は哀れみだったように思う。

 他人と別け隔てなく話せる自分を、何でもないことのように振る舞いながら実は得意に思っていたのだろう。
 さりげなく鼻持ちならない自分に気付くことなく、しかしだからこそ木村とも知り合えた。
 また、いやらしい優位性を心の片隅で保ち続けていたことも確かだった。

 木村の本に対する向き合い方は、今まで知り合ったどの連中にも見たことがなかった。
 静かに深く、真摯だった。
 その木村を通じて、初めて知性に触れた、という気がしていた。
 木村に敬意を覚え、そんな木村と知り合えた自分に得意になった。
 知性に触れた純然たる喜びとして見てくれたのか、木村もまた静かながらに喜んでくれていたようだった。

 高校二年にあがり、クラスが分かれた。

 それでも週に何度かは木村のクラスを訪ね、その度に本を借りた。
 木村はいつも一人、本に視線を落としたままだった。
 一人で寂しくないのかと木村に尋ねたことがあった。
 その時、木村はこう言ったのだ。
「そりゃ寂しいさ。でもね、一人を回避するためだけに無理をしたくないんだ」
 わずかな引っ掛かりがあったような気がして、だからこのセリフを覚えているのかもしれない。
 でもその時は、それなら仕方がない、というような答えに落ち着いた気がする。
 その後は同じように、本を借りては返すことをゆっくり重ねていった。

(続く)
          2話→

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?