桃源郷はそこに #ユーラシア横断旅行記2 ラオス

さて、ラオス。東南アジアの国で山手線ゲームをしたら、タイやベトナムなんかから始まっていき、フィリピン、インドネシア、マレーシアなどと続いて、さてあとなんかあったっけとなった段階のさらに最後の方で挙がる国がラオスになるだろう。ましてや、ラオスはルアンパバーンというその個別の都市については知るべくもなかったが、街全体が世界遺産であるらしく、友人のすすめも会って次はそこへ決めた。

ハノイからルアンパバーンへのバスの車内は虹色に光っていて、さながらゲーミングと名をつけて虹色に光らせればなんでも売れる昨今を象徴するようである。こういう外面(もといバスの内面)を取り繕うようなものは実態が悪いと相場が決まっているが、乗り換えることもできないので予定26時間の寝台バスに乗り込んだ。乗客は白人バックパッカーがほとんどで、ルアンパバーンはそういった層に最後のアジア情緒の残る楽園のような感じで有名らしい。あとは5歳前後の子供2人連れの白人家族が1組。26時間のバス移動に挑む子供、お前は強くなるぞ。

18時に出発の後ベトナムの高速道を南下し、朝になって西のラオス方面へと山道を登り始めたバスは、急に止まり、降りろとベトナム人に促される。運転手の他にもなぜか6人近くバス会社のベトナム人が乗っているが誰も英語を話さないため大声で叫ぶベトナム語とジェスチャーに注目するしかない。どうやらベトナムとラオスの国境についたようで出入国手続きが必要だった。おそるおそる出国手続きに並ぶと、何事かをベトナム語で聞かれた後、お前は戻れと指し示された。え、戻ってもなにもない山なんだけど。

仕方ないからもう一度列に並ぶ。前のおじさんが金を持っていたので、ああ金が必要なのかとおじさんに金を見せてもらい金額を確かめ互いに親指を立てあって仲良くなった後、再挑戦。なんか行けた。そして金はいらなかった。

短い橋を渡るとそこはラオスであった。ラオスの入国手続きは順調でバスはまた進み出すが、ラオス側、明らかに道が悪い。どこまで行っても雨水でぼこぼこの無舗装の山道なので、揺れる。くねくねのカーブの連続でもっと揺れる。寝台バスの二段ベッドの上側だからもっともっと揺れる。そんな道を大型バスやトラックがあっちからもこっちからも何台も連なってすれすれを通過していく。ラオスの物流、すごい。

と、夕方にバスが止まった。エンジンもとめた。少ししても動かない。どうやら雨で道が悪く進めないらしい。どれだけ止まるかもわからない。周りに民家しかない山の中で立ち往生した。少し歩いてみるも物を売っているようなところはないしそもそもラオスの金をまだ持っていない。あと数時間で着く予定だったから、食べ物も事前に買った食パンと500ml水が少ししか残っていなかった。不安。このまま動かなかったら少し残った食料を争って死闘が始まるのかな。

そもそもこのバス、人間は乗客ではなく貨物の一つだと捉えている感じがひしひしと伝わってくる。昨日からなにもないところで度々止まるからなんだと思ってみていれば、バスの中やら上やらにいろんな荷物を積んだりおろしたりしていて、この運送で小金を稼いでいるらしい。さらには地元の人間が途中で乗ってきて少しして降りるというようなこともありそっちでも小金を稼いでいる。

そんなバスだから、ベトナム人が乗客たちにインスタント麺を配り始めたときはみんな顔を見合わせてちょっとした歓声が上がった。ぼりぼり食べる乾麺は美味かった。ベトナム人たちはどこからか調達してきた水で麺をふやかしてみんなで回して楽しそうに食べていた。そういえば水はくれなかった。

ふて寝していると深夜0時にバスのエンジン音でおきた。あたりが真っ暗で雨の降る中、周りのトラックを抜かして1台だけ動き出す。逆に怖いからもはや動かないでほしかった。どうやら道が悪かったらしい場所では、ラオス人たちが夜通し復旧していたようで横転しそうになりながら通り過ぎた。その後何度も車体の底をがりがり削り横転しかけながら、道を外れたら転げていくような斜面のある道を進んでいった。もう仕方がないので寝た。

出発日から2日後の朝、38時間かけてバスはついに到着した。乗客が降りた後、ベトナム人がぎりぎり笑えるくらいの最後の挨拶をしてバスはどこかへ行った。これで白人バックパッカーが「無礼すぎ、ファックユー」と言っていたベトナム人たちとはお別れになった。宿へ向かう。

ルアンパバーンのホステルは街とは川を挟んだ反対側にあって、金属でできた吊り橋を渡るか、渡し守(令和に書くとは思わなかった単語)に船で送ってもらうかで行き来できる。荷物をおいて散策に出るが、実になにもないいい街である。まず交通量も少なく静かだし、客引きも、例として東南アジアのトゥクトゥクという3輪車タクシーといえば、見つかったら声をかけてくるさながらポケモントレーナーなのだが、ラオスでは彼らとのポケモンバトルはもう済ませたようであまり声もかけてこず控えめで楽だ。ラオスは実は社会主義国家でベトナムのように例の旗を見るがその数も控えめ。

ふと既視感のある看板があるなと思ったらマルハンで、ここではなんと銀行だった。こんなのんびりした環境ではマルハンでさえ銀行業という真っ当な職業に変わるらしい。日本では20円やらで1枚の金属の貨幣と両替してくれることを考えると確かに職務に共通する部分はあるのだろうか。その逆の取引は何故か絶対してくれないが。

ホステルに戻った後、そこにいた日本人とスウェーデン人とモロッコ人と仲良くなって、置いてあったビリヤードをした。こういうとき役に立つビリヤードは異文化交流の必須スキルとも言えるので、友人のみんなはぜひ一緒にやろう。誘いも待ってます。

また街にも行った。UXOセンターというところではラオスの不発弾の状況についての展示がある。なんでもベトナム戦争の際に、ベトナムの南北を連絡する細長い間の部分が重要で、そこに隣接するラオスの山間部は多く爆撃を受けたらしい。その時に使われた、1つの爆弾から多くの小型の爆弾が出てきてばらまかれるクラスター爆弾の不発弾がいまだに残っており、子供がそれを見つけて手に取ってしまったり、その上で気づかず衝撃を与えることをしてしまったりで爆発し、死亡者や体の一部を欠損する事故が多いのだとか。不発弾といえばカンボジアのイメージが強かった。戦争の生々しい傷跡を感じる。

次に行ったプーシーの丘は仏教施設ではあるが、観光客も登って街を一望できる。お教を聞きながら数百段の階段を登った先には360°の街並みが広がっていた。付近を流れるメコン川がのんびりと船を運び、支流の小川では子どもたちが渡し船を追いかけて泳いでいる。苦労して来たラオスだが果たしてその価値を感じた。欠点は道が悪いことくらいだ。

このまま何日でも暮らせそうなところではあるが、なにかすることがあるわけでもないし、ヨーロッパという旅の目的地もあるのでタイへ行くべく、南のビエンチャンへ電車で移動した。中国資本によって中国からラオスを縦断する鉄道が作られているらしく、駅名も中国語表示がある。中国の影響力を感じる。

ここビエンチャンは世界一静かな首都で、良く言えば落ち着いている、悪く言えば未発展。メコン川の沿いに広がる規模もあまり大きくない都市だが、韓国からの直行便があるらしくそこからの客向けに韓国語をよく見る。街について少しぶらついた22時には多くの店がもう閉まり始めていた。特に何をするでもなく翌日の電車へ。

事前情報ではタイの通貨バーツでしか切符が買えないと聞き、両替を探すも、日曜でほとんどの店が閉まっており残る銀行もレートが悪く、さらに国の発展度合いからラオスの通貨キープに対してバーツの価値が高いらしく、日本円→ラオスキープ→タイバーツの2回の変化を経た福沢諭吉は8500円分のバーツになって帰ってきた。可愛い子には旅をさせよとはいえどここまで衰弱して帰ってくるとは。

夕方、ラオス国境からタイ国境をつなぐだけの短い電車に乗る。切符はバーツ表示しかなかったが普通にキープで買えた。頑張って両替した意味。ここで出国も済んだ。メコン川にかかる橋を通る列車で10分。到着側のタイの街では市場があり賑わっており近くを通る電車に手を振ってくる子供がいたので、振り返す。写真も撮られる。知らないタイの片隅の街の人の携帯に残る写真で自分が手を振り続けていると思うと奇妙な気分。

入国審査をして、バンコク行きの寝台列車の切符を買おうとするも寝台は人気なのでもう3等の普通の席しかないらしい。10時間近く座り続けることが確定した。乗り込んだ電車の窓から見える赤い寝台列車の景色は眩しい。隣の寝台は赤い、とはこのこと。

電車が走り出していくばくかすると、物売りの人が乗ってくる。一駅分だけ切符を買い、その間にすべて売り切ろうと頑張るのだろうか。適当に指差しで焼き鳥とご飯のようなものをもらった。ゴミを窓から投げ捨てる人もいたけどもそれには習わないでおいた。寝ようとするも、エアコンはなくあるのはしょぼい扇風機のみなので窓全開でないと暑い。だがそうすると風がびゅんびゅん吹き込んでくる。さらに2:2のボックスシートにぎちぎちに乗っているので当然あまり寝られない。羊を数える代わりに、高速で進む電車の窓へと光めがけて飛び込んでくる勇敢な虫の数でも数えていた。

※何しても画像がアップロードされないので想像で楽しんでね。noteを許さない。

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