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【小説】 エコー vol.1

 1999年7月某日

 私はしばしば、ぼんやりとした心持ちに陥る。世界の音が、気が付くともう随分と遠くなっている。
 それはまるで驟雨が街を襲った時の、無音に近付いていく感覚に近い。音で音を消し合って生まれる世界に私は落ちていく。この世界と同じ周波を持ったもう一つの場所へ。
 そこは草原なのだ。とても静かな草原で、鳥の鳴き声一つしない。草原にいるのは54匹の羊と1匹の利口なシェパードと1人の羊飼いの少年。空は青く晴れ渡り、雲が羊の数と同じ数だけ浮いている。その草原は青々としていて、遠くの険しい山まで繋がっている。羊達は静かな老人のお茶のみのように日がな一日草をはんでいる。利口なシェパードはふあ、とあくびをし、羊飼いの少年が「やあ」と私に向かって声を掛ける。
 そこで私は初めて私という存在に気付き、びっくりして、はっと我に返る。瞬きの先に見えるのは、隙なく並んだ本の背表紙で、つまりそこは本屋だった。私は本の背表紙に手を掛けたまま意識を飛ばしていたのだ。いったいどのくらいの時間なのだろう。多分ほんの一瞬の出来事だと思う、誰も私の異変に気付いた様子は見られない。手に掛けていたのは『百年の孤独』だ。その本と私の意識の離脱との間に関係はあるのだろうか。私はこの本をすでに持っているけれど、羊飼いや草原の描写は思い出されない。熱病に浮かされたような不可思議な出来事と人々、そして忘れられたバナナ園が脳裏に広がるだけだ。持っているのにもかかわらず手にしたということは、或いは何かこの本を引き金にした記憶が呼び起こされたのかもしれないのだけれど、今、私の頭はそれを思い出さない。ただ装丁が新しくなっていたので手に取ったのだろう。それにさっき言ったようにこの出来事は初めてのことなんかじゃないのだ、しばしば起きるのだ。客観的に私を見て考え得るこの現象はマイクロスリープと呼ばれるものかもしれない。瞬眠し、そしていつも私は同じ草原を夢に見て同じ台詞で我に返るのだ。
 いいえ、違う。同じ草原で同じ台詞だけれど、巻き返したビデオテープを見るようにいつも同じわけじゃない、確実に草原の世界は広がっている。この前の時は雲の数までは知らなかった、何かが進んでいるのだ。この世界の時間がとどまらないように草原の世界の時間も流れている。そしてこの世界とどこかで時間軸が繋がっているのだ。
 私はいささか空想が過ぎるかもしれない。だけれど、そんな仮の世界も私が想像し得る以上は存在するのだ、私は私の記憶に浮かぶ世界を愛している。空想は過ぎるかもしれないけれどそこに生まれる世界には敬意を払う、何かしらの意味を持っているように私には感じられるから。
 私は本屋を出た。強い陽射しに眉をひそめる。太陽が私を現実に、手で触れられる世界に引き戻す。私は笑った。
「この時間が一番紫外線が強いんだ、少し失敗」
 建物の影を踏みながら、自分の住んでいるアパートに向かう。地面に張り付くような濃い影を選んで歩いた。
 今、季節は夏だ。

 私は澤田夏鳥、24歳。現実にこの日本に、もう少し正確に言うと東京の世田谷区に住んでいる。専門学校に通っていたのだけれど、少し情緒を保てなくなり今は休学中だ。日常生活を続けるのが困難なほどの症状ではないものの、学校に通うにはあまりに不安定な状態だった。毎晩、喚き散らし泣き叫ぶ。或いは本屋でのように(端から見たら恐らく)茫然自失してしまう。また時々、軽い鬱状態に陥ってしまう。病院に通っても原因は掴めなかった。自律神経失調症から脳の病気、例えばパニック障害のようなものまで疑われていたけれど、いずれの症状にも特定し難いため、診断書は白紙の状態のままだ。学校には通い続けたかったけれど無理がきかず、ひとまず今年度は休学をして様子を見ることにした。通っている病院の医師(心療内科医だ)からもその方がよいだろうと言われた。
 その時に、私は一つ要望を訴えた。それは一人暮らしをしたいという提案だった。医師はあまりいい顔をしなかった。それはそうだろう、いつ気を失って倒れてしまうのか分からない人間の身近には、誰かがいた方がよいに決まっている。でも、私は両親への不満を仄めかし、情緒の安定には一人暮らしがよいと、主張をした。それでは、まあ、それもよいかもしれませんね。医師の言説をとり、私はがらがらと一人暮らしの手続きをはじめた。家族もまた、いい顔をしなかったが(何より金銭の負担も強いることになる)、医師の言葉を盾に、私は強引に一人暮らしをはじめた。
 一人暮らしを始めてからは目に見える形にではないにしても、少しは気持ちが上向いてきたように思う。両親の怯えた目にさらされなくても済むというのは(家賃や生活費の一部を負担してもらっているという負い目を差し引いても)気が楽だった。素行が悪かったりしたわけではなく、ごく常識的な振る舞いもできた私だけれど、両親が考えるような当たり障りのない、いい子を演じることができなかった。彼等は私の取り乱す様、気がふれたような行状に失望を感じているだろうと思う。両親が考えるいい人間、夏鳥さん。大過なく人並みの人生を歩むことを求められるのは痛いほど分かっていた。どんな理由があるにしろ、私は彼等の残されたたった一人の子どもなのだから。

 私は20年以上、澤田家の一人娘として育ってきた。本当は家族の中に姉が一人いるはずなのだけれど、私はその彼女に会ったことがなかった。彼女は私が生まれる前に5歳で亡くなったということを聞かされている。事故で亡くなったということだったけれど、詳しいことは知らなかった。いつかそのことを聞かなくてはいけないと思いながらも聞けずにいたのは、それとは別の死を否応なく思い出させるからだった。それを口にすることは私を取り巻く家族という環境を今よりもっと殺伐なものにし、そのことに私自身が耐えられそうにないと思った。

 そんな私の感情を知ってか知らずか、今年に入ってすぐのこと、両親が思い掛けないことをした。世間的に見れば素晴らしいと称賛されることかもしれないけれど、彼等を知る私にしてみれば、それは大きな疑問符が浮かぶ行動だった。
 女の子を家で引き取り、預かることにした、と父親が言った。養子として女の子を迎える、ということだった。私にはその経緯がよく分からなかったけれど、女の子を引き取るということには強く抗うことはしなかった。両親よりも私の方が倫理観に乏しいと思われることを嫌ったのだ。
 その少女は1月の寒い日、我が家にやって来た。彼女を初めて見た時に感じたのは、とても可愛らしいけれど、何か一癖ありそうな子だな、ということだった。なんというか瞳の奥に本当の瞳を隠しているような、そんな子に感じた。彼女は16歳の高校生で、孤児だった。父親から女の子を引き取ると聞いた時、幼い女の子を想像していたので、年齢を聞いて意外に思ったことを覚えている。どういった施設にいたのかとか、そういうことは知らない。それは仲よくなればいつか話される物事のように思っていたし、話されなくても当然のことだと思っていたからだ。興味はあったけれど、どのように聞けばいいか私には思いつかなかった。
 ともかく彼女は家族の一員となった。新しい家族の形にそれぞれが戸惑いはしたものの、彼女は両親とうまくやっているように見えた。姉妹となった私達も仲がいいというほど親しくはならなかったけれど、なんとなく馬が合うという感じがあった。それは彼女の積極性に依るところが大きかったと思う。私達のこのような関係は、穿った見方なのかもしれないけれど、両親の狙いの一つに思えた。両親以外の人の目が家庭の中にあれば、私の奇行が治まるのではないかと考えたのだろう。その目論見は数ヶ月の間奏功した。しかし、彼女の存在が日常となっていく中で、私は自分を抑えることができなくなっていった。自分の部屋で泣き叫ぶことをまた繰り返すようになった、一晩中続くこともしばしばだった。どうしてそんなことをするのか、私自身にもさっぱり分からなかった。そして泣き叫びながら、新しい妹にとても申し訳ない気持ちでいた。彼女は孤児で、私よりもずっとずっと辛い思いをしてきているはずなのに。それでも結局、春の終わり頃に私は病院の勧めとという免罪符を得て、一人暮らしを始めることにした。そんな理由がなければ妹に申し訳が立たなかった。ただ、どんな理由を示しても、逃げるように出ていく私は彼女の何か、魂のようなものを傷つけたに違いなかった。

 彼女は私のことを親しみを込めて夏鳥と呼んでくれていたけれど(私もそれを了承した)私は今も彼女の名前をよどみなく呼ぶことができないままだ。自分の思いは押さえつけることができず、彼女を思いやる優しさは持たない。そんな自分勝手な私はこの地で生きていてはいけないような気がする。
(それは君が生きてはいけない人間だからさ)
 私は歩きながら、びくりと肩を動かした。内側の声はとても危険だ、うるさい、そんな声は聞きたくない。そう強がりながらも次第に自分の心の声に怯えていく、何かしら真実の気がする。だけれどそれは間違いだということもよく知っている。どちらも正しいと私は思う、私はどんどん混乱していく。
(夏鳥が考えて夏鳥が出した答えは正しい。だけど夏鳥は夏鳥であって君じゃない。夏鳥にとっては間違いのこの言葉も君にとっては真実だ)
 私は小走りになる、階段を駆け上がる、自分のアパートの部屋はもう目の前だ。私は夏鳥だ、とてもまともに夏鳥なんだ。私は自分を信じている。
 ガチャリ。
(夏鳥は存在する。君は存在しない)
 私は自分の部屋に滑り込む。鍵をかけて、なぜかうまく脱げないビーチサンダルを蹴飛ばして、息を止めたまま玄関を抜ける。私はおかしな声に振り回されないように叫ぶ、だけれど理性は醒めたままちゃんとあるので、声が隣の部屋に響かないようにソファに置いたクッションに顔を押しつけて叫ぶ。
 私はまともなんだ。
 叫び続けていると次第に喉が痛くなってくる、からからして、むかつく。咳払いをしてそのままソファに横になった。もうおかしな声は聞こえない。私も叫ぶことをやめる。目を瞑り、逃げるように空想の世界に飛び込んでいく。その場所を私は意識下の夢と呼んでいる。アンファンテリブル的に言えば「たそがれ」と呼ばれるその世界、そこでは私の意識がはっきりとしていて、したいことがきちんとできる。だけれどただの空想と違うのはお話が次々とよどむこともなく進んでいくところだ。それは物事の全てが都合よく自分の思うままに進んでいくのではなくて、そこに世界が存在するように1秒は1秒のままで進んでいくのだ。
 雨の音が聞こえる、まどろみかけた私の意識が聞くその音は多分現実の世界のそれであって、滑り込む世界の音ではない。

 いいえ、水の音が聞こえる。流れ落ちていく水の音、大量の水が放出されているのだ。ダムかしら、私は音のする方を見上げた。それは確かにダムの放流のようだった、だけれど何か変だ、私はいったいどこにいるのだ?
 私はすでに自分自身が作った世界に入り込み、好奇心にあふれる5歳児のように瞳を、おそらく輝かせていた。
 私はその場所が海底に広がる世界だということをなぜか知っていて、しかもそこはまだ人類に知られていない場所だった。ここでいう人類とは五千年の歴史しか持たない私達の事で、或いはこの場所はすでに私達ではない誰かがよく知っている場所かもしれない。ともかくここは海底で、だけれど私は水圧に押しつぶされることもなく、また水に濡れてもいないのだ。
 海底にもかかわらず、辺りは太陽光に照らされたような明るさに保たれていて、変に明るかった。この空間は丁度水流の辺りで天井になっている。どのくらいの高さだろう、ビルの2階まで吹き抜けのエントランスホールが思い浮かぶから、きっとそのくらいなのだろう。天井を流れる水流の量を考えると思った以上に広いのかもしれない。水の力を何かに利用しているか、そうでなければここを建てた時の工事の名残なのかもしれない。いずれにせよ恐ろしいほどの水圧に耐える場所だもの、何か特別な場所なのだ。そしてそれはなぜか私にとって特別な場所なのだ。
 ここから私の時間が始まる。与えられた場所でいったい何ができるのだろう。私は何のためにこの場所へと導かれたのだろう。誰かに試されているように感じる私は幾分の選民意識を持っているのだ。
「ここはお墓」
 私の声がくぐもって私の耳に届く。お墓?
 確かにそうかもしれない。見れば小さな石碑が空間の中央にある。瑠璃色のとても綺麗な石だ、蛙のように鎮座している。私はそれに触れてみようと意識した。その石は私がそう思う側から輝き出す、そのことにいささか幻滅する。実際に触れた時の反応が見たいのにどうして先回りをするのかしら。そんなことを考えても時間は過ぎていくので仕方ない、一番の理想形ではないのだけれどその石に触れてみよう。ひんやりとした……、
 その石の冷たさに少しうっとりしていると何かの気配が私の周りを取り囲んでいくのに気付いた。いけない、これはお墓なのだ。
 私は一瞬にしてそれを悟り、つまり海底のお墓なのだからそれはサルガッソーと呼ばれるような場所で、ああそういえば昨日船の墓場が出てくるアニメーションを見たのだっけ、と思い出し、慌てて元の世界に戻ろうと体を起こしにかかった。
 体は動かない、動かないどころかどんどん地面に押しつけられていく、金縛りのようなものだ。私はあきらめて、
「……そういうことか」
 呟き、全身の力を抜いた。水流は相も変わらず激しい音を上げている。私は冷たい地面を背に、体を仰向けにして、目に見えない人達に向かってこう言った。
「いいよ、来な。私にしてあげられることならしてあげよう。何かに私は捧げられたんだろう? 生贄、スケープゴート。なんでもいいよ、その体を貪り食っても。あ、何? まさか私を犯そうとしている? そんなのは許さない。私はとても潔癖な女の子なんだ。齧り付くくらいなら許しもするけれど、私の魂までも穢そうというのは、冗談じゃない」
 私の震える声を合図にして彼等は一斉に体の中に飛び込んでくる、そして私の意思など一切構わずに私の体を食い荒らすのだ。ある者は私が想像したように体を犯そうとしていたのかもしれないが、それ以上に私の肉を食べようとしている者達が多かった。そう、私は何かに捧げられ何らかの力を体に宿した。その肉体を彼等は食い荒らしていく。それはとても吐き気を覚えるものだった、およそ人間の仕業だとは思えないくらい悍ましい接触なのだ。無数のミミズのような小さな虫が体全体を舐め回していく、そんな感じだ。私はそれをはっきり感じ、意識しているのに、なんだか遠くで起きている出来事にも感じていた。それはいわゆる解離と呼ばれる状態のようで、自分には *分裂病 の兆候があるのかもしれないと考える。そしてそれが間違いだということにも気付いている。私は私で夏鳥であって、その他の何者でもないのだ。作り上げたキャラクターはたくさんあるけれど、マスターは私一人で、それはいかなる時でも私を意識している。体が滅びようとしている今でも自分をきちんと認識している。わけが分からなくなって叫び続けている時でも、ちゃんとソファに顔を押しつけて声が漏れないようにするのは、醒めた私がいるからだ。私は他のキャラクターに支配はされない、それは私が夏鳥である自分を一番愛しているからだ。
 私の体を貪り食う気配はやがて何かにすがるようにおとなしくなっていく。「たそがれ」はいつもこんな風にホラーじみているわけではないけれど、絶望的なシチュエーションに巻き込まれる時はいつもそう、貪りし尽くして食欲が満たされた何者かは、今度は私に母の温もりのようなものを求め出すのだ。実は私は、こんな風に彼等が子どものようになっていくことの方に嫌悪感を覚える。最初から素直になればいいのに、そうしたら私だってこんなにすさんだ気持ちにならなくて済むのに。あなた達みたく独り善がりな人達に触れられたくはないんだ。でも知ってる、あなた達を差別することなく優しく抱いてあげることが私の本当に望むこと、世界中の誰にでもしてあげたいけれど現実に生きる私には無理で、だからこんな意識下の夢で死人を相手にやっているのだ。
 彼等は私のおっぱいをむさぼり出す、さっきまでとはまるで違う、泣きたい気分になる。食い散らかされた肉体はもうどこにも存在しないはずなのに、いつの間にかすっかり元に戻っていて夏鳥を纏っていた。私は彼等にとって、もはや女ではなく母親だった。そうだ、彼等はきっと海の男達なのだ。母なる海に抱かれ死ぬも、そこに温もりを感じることはできないで彷徨っていた。でもきっとこの中には豪華客船に乗り込んだうら若い未亡人もいて、あなたの体じゃ満足できないわ、なんてお高くとまっていたりもするんだ。でもその件に関しては私に罪はないのであきらめてもらおう。
 私はどこか優しい気持ちになって彼等を包んだ。もう行くよ。私のことをうまく使うんだよ、さあ、
「神様の下へ」
 私はすっかり救世主気取りで、こんなに簡単に魂を開放してあげられるならなんて楽なんだろうと思う。大勢いた人のような気配は消え去り、変に明るい空間は、がらんとしてその意味を失い始めていた。水流の音は相変わらず轟々としていたけれど、私がその世界から掻き消えるのに合わせるように次第にか細くなり、やがて消えた。

 私はソファでまどろみから醒めた。横になっているままなのに体はぐったりとしている。現実での出来事ではないのだけれど、知らない誰か、しかも不特定多数の死人達に体を預けた。肌に気持ちの悪さがまとわりついていて、それを洗い流したくてシャワーを浴びるために起き上がる。
 開け放した窓から幾分冷たい空気がなびくようにして入ってきて、実際にカーテンをなびかせている。レースのカーテンは水飛沫を浴びたように濡れて光っていた。やはりあの音は雨の音だったんだね、それなりに激しかったのかもしれない。雨はすでにやんでいて、はためくカーテンが何かの秘密を教えるようであったけれども、私は何一つ気が付かないでバスルームへ向かった。
 温度を低めにしてシャワーを浴びる、体が冷えている? 少し温度を上げた。そうだ、きまって意識下の夢に降りた時は体が冷えている。今回は死人に体温を持って行かれたのだろうか。私は丁寧に体を洗った、ひどく乱暴に扱われたものだ。
「加地は優しかったな」
 意識しない言葉が口からするりと抜け出た。私は慌てた、どうしてまたあいつのことを思い出す? 私は、私は……。
 叫び出す私、私は醒めている、また叫んでいるよ。夏鳥、それは逃げだよ、心に辛いことがあるとすぐに逃げ出そうとするんだ、強くならなくちゃいけない。だけど他人がいう強さじゃないよ、私が望んでいるのは本当の強ささ。それはこんな風に醒めた意識の中で叫び続ける自分を諭すのではなくて、この私も共に叫ぶこと。他人を気になどしないで叫び続けること、それが強ささ。夏鳥にはそんな図太さが足りないんだよ。電車に乗れば座席に座り寝ている振りをする、それは強いのじゃないでしょう。あっさりと席を譲れるようなそんな些細な強さが欲しいのだよ。私にはそれがまだできないんだ。他人の目を余りにも気にし過ぎてしまう、今だって強く叫んではいるけれどシャワーの水音が自分の耳を塞いでいるから叫んでいるの。
「私はこんな内側の声に左右されたくはない!」
 私は私なのに……。
 シャワーの水量を少し強くして私は歌を歌い出す、声が震えて臆病な男の子のようだ、私は少し笑った。
 ユカリ・フレッシュの歌を歌う。
 彼女みたいなキュートな歌声が好きよ、私にはいささかキィが高いけれどね。すさんだ気持ちを和らげるには、こんな感じの楽曲がいいんだわ。
 シャワーを浴び終わり、鼻歌しながら髪を乾かす。さっき叫んだことを、まるでなかったことのように取り繕う。軽くブロウした後で鏡の中を覗き込んだ。昨日よりもほんの少しやつれた感じだ。
「夏、だからね」
 家の中にいても何かに追い詰められるようで息苦しいので、もう一度外出することにした。さっきの雨で外気は幾分は涼しくなっただろうと思う。
 日焼け止めを塗り、薄く化粧をする。バレンシアガのワンピースを着て(お気に入りだ)おろしたてのサンダルを履く、コキュのサンダルはとても可愛い。転がっているビーチサンダルを揃えてから、家を出る。

*****

vol.2 >>

*分裂病:精神分裂病。現在の統合失調症。1999年当時、少なくとも夏鳥は統合失調症という名称を知らず、そのため、本文でも分裂病の名称を用いている。病態について、この時点で夏鳥は詳しいことを知らず、誤解も見られる。

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