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「ハマスホイとデンマーク絵画」展 【小説】火曜日の美術館

 その絵はもっと不穏なものが隠されているのだと思っていた。実際に観た時、それは思いのほか優しく、静かで、時折、無意識のハミングが聞こえるようだった。

火曜日の美術館:「ハマスホイとデンマーク絵画」展


 コートの襟を立て、マフラーを巻き、最寄りの駅へと向かう。耳にはAirPods。リーガルリリーの最新アルバムから先行配信されている曲を繰り返し聴いている。
 今日は風が強く、冷たい。それでも出かけるにはいい天気だ。太陽に手をかざす。手の甲を赤くする、風と光。

 わたしは石川葉。東京の郊外に住んでいる。かつて、洋服のパターンをひく仕事をしていた。パタンナーと言えば聞こえはいいけれど、その職場で横行していたのは、他のブランドの洋服を解体して盗用し、パターンをひくこと。わたしは、そんなのに耐えられなかった。だからと言って、誰かに訴えることも打ち明けることもせず、胸の裡にしまいこんでいた。
 まもなく体を壊した。薄利多売のそのブランド(と言うのもおこがましいけれど)は、当然ブラックで、わたしは心身ともに参ってしまった。仕事中に気を失い、救急搬送された。

 今の仕事は、カフェでのアルバイトだ。フランチャイズではあるのだけれど、オーナーの裁量が大きく取られていて、店ごとの雰囲気はまるで違う。メニューも独自で用意して構わないけれど、コーヒーとジェラートだけは必ず提供しなくてはならないらしい。ウチのお店は、比較的シンプルなメニュー構成。エスプレッソ、ウインナー、オレ、ラテ。ジェラートは本部からのものを満遍なく。
 この店には猫がいて、ザジという名のサビ猫だ。もちろん「地下鉄のザジ」から採られている。提供しているのエスプレッソだし、ジェラートだし、イタリア映画にちなんだ名前の方がいいんじゃないの、と思っているけれど、言わない。他のスタッフは、そんなこと気にしていないみたい。
 わたしはザジにどうなの? と聞いてみる。ザジはまぶたを細めて、あくびをし、そっぽを向く。その後頭部に「ザジ」と声をかければ、にゃ、とおあいそで返事はしてくれる。

 火曜日にアルバイトを休む。これといった理由はなくて、月曜、火曜が比較的ヒマだから、という消極的なもの。まあ、でもその方が都合よかったりする。わたしは平日に美術館にゆくことが好きだから。

 電車を乗り継ぎ、上野まで出る。今日は東京都美術館を目指す。前回は何の時に来たのだったかな。ブリューゲルの「バベルの塔」展だ。前職の時代で、日曜日に訪れたそこはとても混んでいて、バベルの塔を立ち止まって観ることができなかった。それはなんだか悲しかったな。それと、すね毛のある足の生えた魚のキャラクターが、なんというか強烈で、そっちの方が記憶に残っているくらい。

 チケットを購入せず、展覧会の入り口に向かう。
 精神障害者手帳を見せると
「どうぞ」
 と入場を促される。

 救急搬送された日、いくつかの検査はあったけれど、医療スタッフが少し弛緩しているのが分かった。たぶん、わたしの症状が緊急を要するものではないと判断されたからだろう。手術などには至らず、やがて精神科に入院することにはなるのだけれど、その日は点滴だけで帰されたのだ。
 そこから手帳を取得するまでには、紆余曲折あったけれど、まだ病気、障害のことは1ミリも乗り越えていられないような気がする。事実、その日以来、わたしはパターンをひとつも引いていない。

 手帳で入場する時に、少し残念なのはチケットの半券がもらえないこと。場所によってはもらえるところもあるけれど、こちらから言い出すことはない。わたしは十分なものを得ているのだし、公共の施設でのこのことは、福祉に、言わば税金によって支えられていること。
 わたしに、少しでも還元できることはあるだろうか。

 美術展を鑑賞するとき、わたしは音声ガイドを頼まない。頼んだ方がよさそうに思うけれど、料金がかかるのに、少し抵抗がある。みんなスマートフォンを持っているのだから、専用のアプリがあったらいいと思う。事前に予習もできるだろし、場合によっては音声ガイドも含められるだろう。そして選べるなら、テキストで促してくれる方がわたしにはよいかな。
 なぜなら耳の穴を開いていたいと思っているから。
 絵画の音を聴くのだ。
 目で見ていると、どうしても細かい情報を追いかけてしまいたくなる。それよりも全体の調和・不調和を見る方が好きみたいだ。それが絵を聴くということなんだけれど、本当は、もう少し違っていて、それは言葉では伝えられないような感覚だ。
 物語が動くのが見えるというか。小説を読むときも同じような感覚を得ることができるのだけれど、それは。
 音を聴くこと、絵画の中に入ること。

 展示の最初は「日常礼賛ーデンマーク絵画の黄金期」と題されていた。知っている絵画はなかったけれど、ハマスホイが所有していたという「果物籠を持つ少女」は素敵だった。コンスタンティーン・ハンスン作。他の絵画も、ああ、構図がとてもいいんだ。
 わたしの目は、少し養われている。それは、先日ソール・ライター展を見たからに他ならない。大きな余白を取ること。便宜上、余白という言葉を使ったけれど、フォーカスとデフォーカス、広がりを表現するのに必要なこと。しかし主題を決して離れないこと。

 わたしは趣味で写真を撮る。結構いいカメラも持っている。レンズも単焦点ばかりだけれど、好みのものを揃えた。それで、今、構図の意味をなんとなくわかりかけているところ。今のわたしに紙や布に線を引くことは難しいことだけれど、写真に線を引くことはできる。線そのものを見せられるのが絵画であり、写真だ。こんなことを言うと、素人が何言っているんだ、と叱られそうだけれど、モチーフを線の中に落とし込めなくては、素晴らしい作品にはならないだろうと思う。
 ただ切り抜くだけでは、きっと音は鳴らない。喧騒を閉じ込める。静謐を包む。

「スケーイン派と北欧の光」、2番目のコーナーの展示タイトルだ。スケーインというのは地名で、その地名から採られた絵画集団がそう呼ばれるようだ。バルビゾン派とかそういうのと一緒だ。
 スケーイン派の作品はわたしには野趣あふれるものに感じられた。色彩は明るく、躍動している。田舎の暮らしがあり、その素朴さを賛美するよう。
 田舎の暮らしはわたしにはどうだろう。向いてはいないような気がする。人間関係にやられてしまいそうだ。それにほら、美術館、少ないじゃない?

 3番目は「19世紀のデンマーク絵画ー国際化と室内画の隆盛」。
 最初から気づいていたけれど、きっとハマスホイの作品、少ないよね。でも、3番目のコーナーにきても、まだ観られないとは思っていなかった。ちょっと不安。そんなわたしを励ますように喜ばせる作品がこのコーナーにはあった。
 ピーダ・イルステズ「ピアノに向かう少女」「縫物をする少女」。
 可愛らしい女の子の後ろ姿。モデルをやらされている感が、そこはかとなく伝わってきて、かえってそれが微笑ましくていい。表情は見えないのだけれど、きっとしかつめらしい顔をして、精いっぱい要求に応えようとしている。
 家族の姿が見える作品群は、北欧らしい光に満たされている。光の角度がそれをさせるのだろうか。緯度や経度は、間違いなく作用する。

 ヘレン・シャルフベックはフィンランドの画家。病から回復した後の作品、「快復期」以降の作品はパリからフィンランドに戻っての作品になるのだけれど、ピーダ・イルステズの色彩に似ているような気がする。光の感じが、中央ヨーロッパのものよりハイキーで、或いはそれは長い冬の反動、また光への渇望なのかもしれない。それが共通点として見出される。
 北欧という言葉によって引き出された単なる思い込みかもしれない。ヘレン・シャルフベックの絵画ももう一度見てみたい。

 いよいよ「ヴィルヘルム・ハマスホイー首都の静寂の中で」、ハマスホイのブースに足を踏み入れる。淡い感じが、デフォーカスのようで、印象派のものとは当然違って、フォルムがあるのに、膜の向こうにあるように思う。
 こういう写真ならもしかしたら撮れるかもしれない。わたしは絵画を鑑賞しながら、いつも自分の作品のことを思い浮かべてしまう。もう洋服を作ることはないと思うけれど、それでもいつかデザインやアートの世界には戻りたいと願っている。今のわたしが作品を提出したら、日本ではアウトサイダーアートとされてしまうかもしれない。
 それで、全然構わないのだけれど、本当にいつか、自分の手で生み出したもので生計を立てられるようになるのだろうか。

 パターンは引かないけれど、刺繍は好きで続けている。数が出来たらminneとかで販売したらいいのかしら。刺繍のブローチを作ろうとしている。あ、そうだザジをモデルにしたらいいんじゃない? ていうか、カフェで委託販売できたりしないかな。今度店長に相談してみようか。
 そんなことをぼんやり考えながら鑑賞していると、すうっと音が引いた。
 展示されていたパンチボウルが絵画の中に吸い込まれている。トレイは抱えられている。

 そして、わたしは絵画の音を聴く。

 後ろ身頃と袖の膨らみが、とてもモダンで素敵な黒い衣装。ハイウエストのベルト部分に抱えられたトレイが収まっている。
 とても静かな絵画だ。「背を向けた若い女性のいる室内」。
 そう、とても静かなのに、低い、ハミングのような音がその絵から溢れている。
 絵の中の女性が、歌うそぶりはまるでなくて、静謐な絵ではあるのだけれど。

 展覧会の案内のポスターにも採用されているこの作品を最初に見たのは、Twitterのタイムラインに流れたきたものだったと思う。その時に感じたのは、そして実際にこの絵に対面するまでに思っていたのは、超現実主義の絵画が孕んでいるような不穏。デ・キリコの描く世界に繋がっているのだと勝手に想像していた。

 絵の前に立つ。そうすると、やっぱり、女性の低いハミングが聞こえてくる。
 これはまったくのわたしの想像、というか空想で、この女性はモデルをしながら、(食器を洗う時みたいに)鼻歌していたのではないか、ということ。していなくても、画家との距離感に緊張はなく、静かで、日常の空気。

 わたしは、モデルの女性の顔を見ようと描かれている壁の方へ体を回す。その動きのせいでパンチボウルの蓋が少し滑る。女性は慌ててその蓋を抑える。そして振り向いてほっとした表情を画家に見せる。

 わたしは、絵の前で、そんなフィルムを見ていた。

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 特設会場で図録を購入する。ポストカードもいくつか。そして足早に会場を後にする。静かな部屋の日常を、コートの裡に崩さぬように抱える。
 イヤフォンをするけれど、音は流さない。コートの裡にあるものを聴く。
 電車の吊革を掴み、目を閉じる。
 乗り換えて、また吊革を掴み、目を閉じる。
 まだ、ハミングは聞こえている。
 駅に着く、早く図録を広げたくて歩く時間がもどかしい。
 だから、いつものドアを、ギイと開ける。

「葉ちゃん、今日シフト入っていたっけ?」
「お客です。ウインナコーヒー」
「お洒落して、もしかしてデートだった?」
「デート? ああ、ひとりでデートしてた」
「また出た。いつものヤバイやつだ。それ無くさないと彼氏なんてできないよ」
「別にいいよ。わたしにはザジがいるから」
「おんなのこじゃん、ザジ」
「それでよくない?」
「はい、ウインナ」
「サンキュー」

 わたしはザジの頭を撫でる。
 ザジはそっぽを向いて、にゃ、と鳴く。

 黒いテーブルの、黒い椅子に腰掛けて、わたしは図録を開いた。
 ハミングを、図録の中に閉じ込めたくて、急いでページを繰る。

 絵は、ハミングの手前で止まっていた。
 それでいい、それでいいんだ。

 わたしは、でたらめにハミングして、コーヒーカップの手を掴む。

おわり

参考リンク





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