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【批評会プレ議題】 物語を届ける

「物語を届ける」の定義として、3つのことを考えました。

1.文学賞を受賞し、書籍という形で流通に乗る。
2.小節投稿サイト、またはnoteや個人ブログも含め、人の目にとまり、こちらも結果的に書籍の形で流通に乗る。
3.雲に星をぶら下げる仕事。

1.文学賞を受賞し、書籍という形で流通に乗る。

日本の出版業界はエージェント制ではないので、やっぱりデビューするには文学賞を獲得するのが一番です。わたしも、群像、文學界、文藝、小川未明賞や飛ぶ教室などに投稿してきました。
ちなみに、第1回透明批評会にエントリーしている「未草独白」は雑誌「飛ぶ教室」に送ったものです。この時は選考に残りませんでしたが、選評にこのような言葉が載っています。

わたしは、賢治でもなく南吉でもなく、ケストナーとファージョンを読むことから、駆け出した

選者のひとり、今江祥智先生の言葉の抜粋です(駆け出したの部分に実際は傍点がついている)。未草独白は、二番で、宮沢賢治の「シグナルとシグナレス」を引用しています(二次創作と言ってもいいかもしれない)。それで、わたしは勝手に自分へのメッセージと受け取りました。ケストナーとファージョンは、本当に素晴らしい(そのことは、今は割愛します)。
「飛ぶ教室」は、児童文学の雑誌なので、ターゲットが明確にあり、どうやらトレンドも存在しているらしい。しばらく投稿を続け、1次や2次は通過しましたが、残念ながら入賞はなりませんでした。現在は投稿をお休みしています。

他の文芸誌も軒並み落選しています。単純に地力がないのは確かなのですが、自分の作風とのマッチングもあるのではないかと考えてしまいます。それで、みなさんには、わたしの作品であれば、どの媒体に投稿するのがよいかを教えていただけないでしょうか、ということが、そもそもの発端なのです。
個人的にはspoon.やMilkなどの雑誌に掲載されたら嬉しいなあ、と思っています。
ただ、今、発売している群像に市川春子さんのエッセイ(未読)が掲載されていたり、文芸誌も変化してきているので、素晴らしい作品さえ書ければ、チャンスはあるかなあ、とも思っています。その素晴らしい作品ってやつが難儀なのですが。

2.小節投稿サイト、またはnoteや個人ブログも含め、人の目にとまり、こちらも結果的に書籍の形で流通に乗る。

ディクショナリーという短編小説はnoteに投稿する前に、エブリスタに投稿していました。ここでyomyomコンテストが行なわれていたからです。yomyomは群像などに比べると、エンタメ要素が強いので、もしかしたらこっちかなあ、と思って投稿しました(ディクショナリーは飛ぶ教室では1次選考は通過しました)。
でも、エブリスタは閲覧数も少ないのですが、何よりシステムがレガシーで、どうにも馴染めませんでした。その点noteはカイゼンがあり、デザインのことを考えてくれるので、とても好ましい。
わたしがnoteを選んだのは、スマート新書が発売されると知ったからで、つまりこちらも書籍化されたいという願望ゆえに、始めたところがあります。実際にはじめてみると、noteで完結してもよいと思わせる部分がありました。継続的に売り上げがあるのならば、電子書籍を販売しているのと変わらない。全文を読めるけれど、手元に欲しい方へはPDFやePUBを用意して有料ダウンロードという方法がとれる。参考にしたのは、こちらのエントリーです。

名刺のaiデータは購入後にダウンロードができます。とっても素晴らしいアイデアです。それで、わたしもディクショナリーでそれを始めてみました。
PDFなら、表紙やフォントや文字組みにもこだわれるので、よい方法ではないかと思っています。

noteでは、もう1点、cakesという姉妹プラットフォームがあります。cakesコンテスト、必死にエントリーしました。わたしは見事に撃沈しました……。(丹宗さん、1次通過おめでとうございます!)cakesでの連載も届くということになります。届くの定義の中に、公開の前に編集者など、他の人の手も加わる、というのがありそうです。装丁や本文を作ることは個人でもできるけれど(流通も文学フリマなどがあるわけだし)、編集者の目が入るというのが大きいことではないかと思います。編集・校閲なしで、作品出すのってやっぱりこわいですもん。

そんなわけで、今は、noteで投稿するのがよさそうだ、と判断しているところです。他に、よい媒体があれば、それをぜひ教えていただきたいです。

3.雲に星をぶら下げる仕事

こちらは、ずいぶん観念的になります。考えるきっかけになったのはこちらのツイートでした。

画像の中に音楽家の高橋悠治さんの問いがあります。

「あなたが自分の思いを他人に深く届けていいと思う根拠はなんですか」

この文藝を読んでいないし、もちろんイベントにも参加していないわけで、全容を知るわけではないけれど、端的にショックを受けた。ショックを受けて考えた。
それで、この掌編を書いたのです。

そして、こちらも。

届けるのではなく、届いてしまうようなものになる、それが願いなのかもしれません。それができるのなら、届くとか届かないは瑣末な問題になる。究極的にはそれを目指すのだと思います。

思ったよりも長くなりました。インスタントに知りたいのは、個々人に合う発表媒体です。それも貴重な情報です(あと1個、媒体を作る、というのもあるけれど、それはまたの機会に)。
それに加えて、透明批評会では、個々人の作品に対して、より深い議論も行なえたらと願います。

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