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表記について考えるワークショップ

 森ノオトで開催している「ローカルメディアミーティング」とは、メディアに関わる人たちが日々移り変わる情勢の中で、発信に関わる普遍的な真実を探ろうと考え対話を続ける場だ。そこで当初から応援してくださっている元テレビマンが、次のようなことを話した。
「差別用語を覚えて使わない、という発想ではなく、その言葉が生まれた背景を知ることが、メディア人には大切だ」
 彼の言葉は時々わたしの心にグサッと刺さる。そうだ、わたしはライターになるための「試験勉強」をしたいわけではない。なぜ、どうして、その言葉を使うのか、言葉をつむぎ吐き出すという行為のなかで、確認し続けたいと思っているのだ。

 森ノオトのライター養成講座では、「編集では、表記の統一をします。差別用語がないか、誤字脱字がないかチェックします」と伝えていた。編集長チェックで統一されたからこの言葉を使う、以上に、言葉について一歩踏み込んだ議論を、森ノオトのライターとしてみたい、と思った。

 そこで、2018年6月の編集会議では、「表記を考えるワークショップ」をおこなった。参加するライターに、事前に「子ども」の表記について各々調べてくることを頼み、それぞれの「子ども観」を語ってもらった。当日の参加者は10名。

 表記の候補については「こども/子ども/子供」の3パターンを用意した。従前より、森ノオトでは「子ども」を統一表記にしていたこともあり、事前にどの表記を使うかを尋ねたところ、全員が「子ども」と答えた。

 次に、それぞれが事前に調べてきた「子ども」についてのディスカッションをおこなった。出てきた意見は次の通り。

・ 前職で地域新聞の記者をやっていたが、会社の表記で「子ども」に決まっていたので、何も考えずにその表記を使っていた。新聞は1行が12文字で紙幅が限られているので、「子供」にしたい気持ちにかられることがあった。

・ 「こども」の表記はやわらか印象で、子ども本人に伝わる「こども」な気がする。

・ 「子供」の「供」は支配的な印象がある。子供の反対語をあえて言うならば「大人供」となる。「子ども=人格を認めた小さな人」という意味をもった文字の使い方をしたい。

・ 「こども」はトコトコ歩く未就園児のイメージ。「子供」は親に対しての子供であり、幼い印象を持つ。「子ども」はその中間的な感じがする。

・ 「供」の字には供え物、親の従属物との印象がある。

・ 「供」の字には「ら」という複数の意味もあり、一人ひとりの権利を尊重するならば「子ども」とひらく方がよい。

・ 映画の字幕をつける仕事をしているが、字幕では「子ども」とすることが多い。視覚的にはひらがなのみの方が伝えやすい。

・ 「子」は親に対しての「子」なので、子どもの権利を考えると、子ども自身がとらえやすい「こども」の表記がベストではないか。

・ 「供」は接尾詞にあたるのでひらがなで表記するのが一般的。

・ ビジネスで使う時には「子供」。「こども」はやわらかい表現で、低年齢の子が読む時に伝えやすい。「子ども」は中庸な印象で、広い世代に伝える時に使いたい。

・ 私はイラストレーターなので、ビジュアルで文字をとらえる。「子」という文字が好き。

・ 2013年に下村博文文部科学大臣が、「供」に差別的・従属的な意味合いはないとして、文科省内の公用文書では「子供」に統一するという見解を発表した。現在は、メディアなどは「子ども」の交ぜ書きが主流である。「子供」「子ども」「こども」の表記の違いを見るにつけ、書き手に意図的なものがあるのかと想像してしまう。

 森ノオトに所属するライターは、それぞれ記者やライターの経験のある者、絵本に造詣の深い者、デザイナーやアーティスト、市会議員、専業主婦など、幅広い属性の個性的なメンバーが集まる。文字をグラフィックにとらえる者、ビジネスや公文書目線で考える表現や、親と子の関係性や従属性などに言及する者、子どもの権利条約と結びつけて考える、子ども自身がどう文字をとたえるかといった子どもの目線など、様々な意見が出た。

 最終的には、森ノオトのメディア内では「子ども」で統一することが参加メンバーの全員一致で決まった。「子ども」を表現する私たち一人ひとりが、子どもと大人の関係を考え、子どもを一人の人間として尊重し、そこから学び、子どもが子どもらしく生きる権利を私たち自身が守ろうという意志を確認し合う機会になった。

 その後話題は夫婦関係をどう表現するかに及んだ。「主人」「旦那さん」「夫」「パパ」に対して、「妻」「奥さん」「かみさん」「嫁」「ママ」や、婚姻のあり方、夫婦関係が対等であるかどうか、妻が働いているかどうか、ジェンダーの問題を多分に含んでいること、LGBTのカップルはどう表現するのか、そもそも呼称についてあまり考えたことがなかったなど、話は「子ども」の表記以上に熱を帯びた。文字の起源や言葉のおこりについての分析を加えること、歴史的にその言葉がどう使われてきたのかを把握する必要性もあり、また日本の文化や制度、諸外国での表現との対比など、表記を考えるワークショップは、人間と社会の関わりを知り表現するうえで、とても有効である可能性がありそうだ。

 編集会議で「子どもの権利」に話題が及んだことから、私はその後、ユニセフのホームページを開き、「児童の権利条約」について調べた。1990年に国連で採択された子どもの権利条約では、その前文に「児童が、社会において個人として生活するため十分な準備が整えられるべきであり、かつ、国際連合憲章において宣明された理想の精神並びに特に平和、尊厳、寛容、自由、平等及び連帯の精神に従って育てられるべきであること」が示されている。特に4つの柱として、「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」が挙げられ、児童の権利を保障するために「児童は、身体的及び精神的に未熟であるため、その出生の前後において、適当な法的保護を含む特別な保護及び世話を必要とする。」と、大人や社会の保護を明確に示している。また、子どもの権利をより確かなものとするために、2000年に以下の2つの議定書「子ども売買、子ども買春及び子どもポルノに関する子どもの権利に関する条約の選択議定書」(日本は2005年に批准)、「武力紛争への子どもの関与に関する選択議定書」(日本は2004年に批准)が採択された。

 日本は「児童の権利条約」の批准(1994年)から24年経ち、新たな課題を抱えている。子どもを巻き込む児童ポルノや売買春、インターネット等によるいじめ、虐待や子どもの貧困など、子どもが自ら望むことなく命を落としたり尊厳を奪われるといった、心を痛めるニュースも多い。また、18歳で法的に成人とみなす民法改正や、少年法の適用年齢を引き下げる改正といった、「子ども」の年齢に対する議論も強まっている。特に、格差社会のなかで、貧困や教育格差に対する「自己責任論」の台頭や、新たな差別の発生にも注意したい。

 子どもが一人の人間として尊重され、未熟であるからこそ大人や社会の保護を受けながら成長していく権利を有していくことを、私たち大人は今一度肝に銘じて、子どもに接しなければならない。国連憲章における「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎を成すものである」という人権意識、ならびに日本国憲法に定められた基本的人権(平等権、自由権、社会権、参政権、受益権)を大人自身が認め、それを子どもに伝え、一人ひとりが人種や性別、生まれや故郷、環境に左右されずに尊重される社会をつくる義務を持つことを忘れてはならない。

 共同通信社が刊行している『記者ハンドブック 第13版 新聞用事用語集』の「差別語・不快用語」の章では、次のように記載されている。「性別、職業、身分、地位、境遇、信条、人種、民族、地域、心身の状態、病気、身体的な特徴などについて差別の観念を表す言葉、言い回しは使わない。基本的人権を守り、あらゆる差別をなくすための努力をするのは報道に携わる者の責務だからだ」。総務省の『情報通信白書』(平成29年度版)によると、2016年度の世帯におけるモバイル端末全体(携帯電話、PHS、スマートフォン)の世帯普及率は94.7%、個人の普及率は83.6%にのぼる。誰もが情報発信でき、また誰もが膨大な情報量にさらされるなかで、日々目にする「言葉」が生活や意識に与える影響は大きい。特に、発信者は言葉の持つ意味を考え、社会にどのような言葉を流通させるのかの意思と意識を大いに持つべきであると私は考える。

 今回、森ノオトでおこなった「表記を考えるワークショップ」。今後は、パートナーシップや障害といった様々なテーマで実施していきたいと考える。それにより、身の回りにいる市民ライターの言葉への感度を高めること、また情報の受け取り手への人権意識の啓発に役立つものになると思われる。


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