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ワタクシは役立たず

時折、自己肯定感の高い人を見かけると羨ましくなる事がある。

ワタクシは著しく自己肯定感が低い。寧ろ、常に自己否定しながら生きている。

直接の原因になったのは、ワタクシが小学5〜6年生の時に担任だった教師だった。この男、余程ワタクシの存在が気に入らなかったと見えて、事ある毎に「お前に基本的人権はない」「お前のような白痴は将来二本足で歩けなくなる。獣同然の姿に零落れるだろう」等と、散々ワタクシを罵ってくれたものである。それもほぼ毎日。
実は、幼少期のワタクシには所謂ADHDの気があり、突飛な行動や言動が多かったので、恐らくはそれも一因だったのだろうと今は思う。だが、それを差し引いても奴のワタクシに対する露骨な嫌悪感は常軌を逸していた。とにかくこ奴にはアイデンティティを全否定されまくって、気がついたらワタクシは自分自身を肯定する事が出来なくなった。

序でながらこ奴がワタクシに施した仕打ちとしては、他の生徒なら軽い叱責で済む理由で鉄拳を喰らった事がある。体育の授業で跳び箱に挑んだ時に突き飛ばされ、激突して鼻血を大量に噴いて保健室に直行になった。「死ね」と罵られた事も一度や二度ではない(お陰でワタクシは最近まで、他人に「死ね」と面前と叫ぶ行為の罪深さに気がつく事が出来ず、翻って随分と多くの人間を不快足らしめる結果となった)。

長じて社会に出てからも、ワタクシに対する評価は自他共に決して高くはならなかった。元担任の呪いは今も解けてはいない。何なら今でもワタクシの周囲の人々はワタクシをクソの役にも立たない人間だと認識しているのではないか…と思い込んでしまう。
自分で言うのも何だが、ワタクシは社会人としては決して器用な方では無い。寧ろ普通の社会人なら当たり前に出来る事が出来ず、結果的に周囲に迷惑をかける事が非常に多い。それ故に自己嫌悪に更に拍車がかかっている。
若しも今のワタクシにストレス解消の手段…折り紙、クラフト、テキスト作品etc…が無かったら、今頃自己嫌悪が過ぎて自家中毒を起こし、自ら命を絶ってしまうのではないかと言う位には危なっかしい精神状態の中で生活している。自己評価が低いワタクシが唯一自分を褒めたくなるのは、ストレス解消で幽世に片足を突っ込んだ精神を現世に引き戻した、まさにそんな瞬間だ。
…「良くぞ死ぬのを思い留まった」と。

そして、過去から今日に至るまで、恐らく周囲はワタクシのこの危なっかしい精神状態に気がついていない(因みに今回noteを介してカムアウトしたのは気がつかない周囲への面当て…などでは勿論無く、そろそろ何らかのカタチで視覚化しないと精神的にヤバそうだったからである)。
…いや、もっと言えば「信じ難い」「お前みたいに面の皮の厚い輩がそんなガラスメンタルなのか」「お前如きがそんな繊細な神経など持ち合わせて堪るか」…と面前と宣う輩が少なくない。そしてカムアウト序でにつけ足すなら、ワタクシの身近な場所にはワタクシを悪し様に罵ってもワタクシが追い詰められて死ぬ事は無かろうと妙な自信を抱いている御仁がたまに居る(最近は稀になったが)。二十代、三十代の頃はそうした手合いには随分と苦しめられた。今もその当時を思い出しては自己嫌悪の上塗りをして勝手に苦しむ事がある。

そうそう、ワタクシの自己肯定感の低さには、少なからず我が親も片棒を担いでいる。
ワタクシの両親はワタクシの趣味…クラフトや折り紙、今は休止中のイラスト…に対して物凄く理解が低かった。いつか両親がそれまで住んでいた静岡県西部を離れ、生まれ故郷である北海道に居を移す事になった時に「今生の別れになるかも知れない。是が非でも見送りに来い」と言われて東京駅まで見送りに出た時、当時通っていた就労支援事業所の訓練で作成した龍のイラストを見せようとしたら穢らしいものでも見るような顔をされて「そんなモノ持って来ないで!」と絶叫された時など、思わず内心「嗚呼、俺の自己肯定感低いのこの二親あっての結果だわ」と呆然としたものだった。

恐らくワタクシの自己肯定感は、死ぬまで向上する事は無いだろう。この先もワタクシを嫌う人々から否定の眼差しを受けては憎しみや自己嫌悪の上塗りをし、過去を思い出しては自己嫌悪の上塗りをし、そうしてギリギリ幽世に片足を突っ込んだ精神状態を服薬や趣味で何とか現世に引き摺り戻して生きていくのだろう。
特効薬は無いに違いない。あるなら今すぐ処方して欲しい。

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