夏の賞与を頂いた。
取り立てて使い道も思いつかず(おい貴様以前もそんなコメントしてなかったか?とセルフツッコミ)、考えた末に馴染みの寿司屋に足を運んだ。
(この寿司屋については以前記した記事【寿司】も参照されたし)
例の発熱性感冒が下火になった影響もあるのだろう。客は感冒の流行前よりも遥かに多く入っていたし、店内が混んでいる為に飲食を断念して帰る団体客もちらほら居た。
そんな光景を横目に、ワタクシはひとり黙々と寿司を堪能していた。
いつもなら板さんと寿司を食べながら軽妙な内容の会話に興じるところであるのだが、今日ばかりはそうは行かない。何しろ客は多く注文は切りもなく、何ならUber Eatsや出前館からの注文にも応じなければならないので板さんは始終休み無く寿司を握り続けなければならないからだ(目の前にいる客だけではなく目に見えない客の為にも寿司を握り続けなければならないのだから相当な労力の筈である)。
嬉しい悲鳴と言う奴はこう言った状況では無かろうかな…等と、板さんが寿司を立て続けに握る手つきに見蕩れながら考えていた。
「すみませんね旦那、今日は待たせちゃってね」
「いえいえ、お気遣いなく。僕は時間に余裕がありますから」
そんなやり取りをした他は、殆ど惚けていたように板さんが寿司を握る手つきを眺めていたのではなかろうか。逆に言うと、うっとりする位板さんの手捌きは所作が素晴らしかった。
多分、一時間ばかり店内に居たと思う。
ふとワタクシは、
(これこそが【時間を肴に酒を飲む】って奴ではないのか)
そんな事を考えた。
…いや、今現在のワタクシは健康上の理由から酒はほぼ飲まないのだが。何ならこの時も烏龍茶(ウーロンハイではない、念の為)を冷やで飲んでいた。
そんな夕餉のひと時だったが、ふと目にした【今日のおすすめ】の手書きメニューに妙に心惹かれるものがあった。
【今日のおすすめ】
アイナメ
ソイ
土佐造り(カツオのたたき)
アイナメとソイは共に北海道産、カツオは四国の漁場直送だと言う。
折角なので頼んで賞味した。
ワタクシにとっては、実はアイナメとソイは故郷の味でもある。
アイナメはワタクシの生まれ故郷・北海道函館市では【アブラコ】と通称され、食用は勿論スポーツフィッシングのターゲットとしても知られた大衆魚であった。だから上京した時、本州以南でアイナメが高級料亭で重宝される旨を知った時は驚いたものだった。
他方、ソイ(特にクロソイ)は【蝦夷の鯛】の異名を持つ高級魚である。
然し、若い頃のワタクシは生憎魚の美味しさを知らなかった。
寿司を食べられるようになったのは、丁度社会に出て酒宴に参加する機会が増え、味の好みが変わってからである。
当然、生のアイナメやソイを口に入れるのは初の試みだった。
以前板さんに「寿司を味わう時は、たまには王道から外れた品を嗜むのも粋のひとつだ」と言われた経験に従ったものである。
結果は…上々の体験だった、とさせて頂く。
「御馳走様でした。今回も堪能させて貰いました」
会計の折、レジに立った女性に謝意を述べると、女性は何度も「今日はお待たせしてすみませんでした」と繰り返した。
ワタクシはそれ…滞在時間が長引いた事を何ら不快には感じず、寧ろ【楽しませて貰った】位の気分だったのだが、ひょっとしたらワタクシが寿司を握る板さんの手元を凝視していたのに対して、店側の皆様に、
「このお客、怖い顔をしてじっと見ている」
…なんて、あらぬ疑いを持たれてしまったのではないかと些か申し訳ない気持ちになりかけた。ワタクシは女性に「例の感冒が下火になり人の流れも増えましたし、僕もゆっくりとしたひと時を満喫しましたので…」と声をかけ、店を出た。
そんなワタクシの背中に、板さんがひと言こう声をかけた。
「懐が暖かくなったら、またお出でなさい」
萎縮したワタクシの思考は、杞憂に帰結する。
ふと見上げた夜の空には、いつもより鮮明に星が輝いていた。